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2012年1月23日 (月)

アソビをせんとや生まれけむ

Ir_2s 今年の大河ドラマ「平清盛」では、主人公を、古代王朝国家から中世武家政権へ向かう大きな時代転換のパイオニアと位置づけています。唯物史観的な視点からは、“当時は、農業生産性の向上と、物々交換経済から貨幣経済への移行という経済構造の転換期に当り、こうした劇的な下部構造の変化が、武家階層への政治権力の重心シフトを促した。この変化にいち早く対応し、先駆的な役割を果たした平氏が、強力な経済力を身につけて、政権の中枢に参画することになった”といった整理ができると思います。

 「経営者・平清盛の失敗」では、清盛は、日宋貿易の更なる拡大と収益力の向上を目指し、「音戸の瀬戸」開削や人工港築造等の積極的な経営を推し進めたが、彼の最晩年からは、世界的な寒冷気象や「銭の病」(同書では、輸入通貨である宋銭は需給調節ができなかったために発生したデフレとハイパーインフレを指す、という立場)といった不幸な出来事が続いて、平氏は短期間で滅亡。その後の、鎌倉から江戸時代に至る700年弱の日本は、織豊政権等の短期的な例外を除いて、基本的には「土地本位(一所懸命)&閉鎖的(極端な場合は鎖国)」という、武家政権下の社会・経済モデルが続くことになった、という考察をしています。

 さらに、もし平氏政権がその後も続いていたら、日本は国際交流にもっと積極的な国になっていただろうから、東アジアに貿易国家として台頭し、日本人はもっと外国語が話せて、土地神話や持ち家信仰もこれほど根強くならなかったのではないか、というおもしろい歴史のifを展開しています。私も大いに共感するところですが、もう一つ、もしそうなっていたら、日本人の儒教に対する理解、ひいては、現在に至るまでの、日本人の人間・人生観や社会・政治に対する考え方は全く異なるものになっていたのではないか、というのが私のifです。

 「儒教」は、5世紀頃には日本に伝来していたそうですが、①江戸時代以前は基本的に僧侶を中心とする少数の知識人の教養にとどまったこと、②江戸時代以降に、統治理念や道徳教学として日本社会に広く浸透する過程では、都合の良い部分だけを取り出し、理解・納得できる内容に換骨奪胎するといった、日本人が得意な外来文化・思想の受容パターンを免れなかったこと、③鎖国により事後的な比較検証が十分になされなかったこと等により、日本の儒教は、本来の主旨を残しながらも、かなり特殊なかたちで理解されてきたのが実体のようです。儒教が日本の経済・社会に与えた影響については、既に多く語られており、将来のためにその重要性を見直すべきとの意見も、特にここ数年は多く聞かれるようになっています。この点について、私が理解している範囲での結論めいたことを言えば、“「日本的な儒教」は、明治維新からバブル崩壊までの日本の発展に重要な役割を果たした。しかし、「現在の日本と世界が抱える問題」に対処するには、変質を受ける以前の「儒教本来の考え方」のほうが有効ではないか”というものです。

 最初に、歴史的・日本的な変質を受ける以前の「儒教本来の考え方」のポイントからあげると、第一は、多くの宗教とは異なり、最大の関心が社会的人間としての生き方にあり、人間の本質に対する信頼と、努力による成長を肯定的に考える点です。仏教や老荘思想が無知・無欲による個人的な救いに主眼を置くのに対し、儒教は、政治と道徳を主要な問題として真正面から捉え、人間の「欲望」の存在を認めたうえで、それでもなお、人間は他者との間で欲望を調和させる道徳的本質を先天的に持つと考える、オプティミスティックな人間観が正統を占めています。

 二番目の特徴として、「儒家的合理主義」をあげることができます。「知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す。これ知るなり」の言葉に示されるように、理性で確認できないものを直ちに否定するのではなく、また独りよがりに理論付けするのでもなく、知識や経験を積んではっきりしてきた段階で結論を出すという懐の深い、良い意味での曖昧さを持った合理主義です。これはもちろん、問題を丸ごと先送りする状況追認的な反応や、日和見的な折衷主義といった、無責任な態度を意味するものではありません。対立するものが、その対抗性を失わないで「競い合い」ながら、しかも相手を容認して譲るべきは譲るというあり方、個を貫きながら全体の調和の理想を追求する姿勢、絶えず変動する情勢のなかで広く情報を集めて「中」を求める態度、そうした複合的なあり方のなかに「儒教的合理主義」の神髄はあるようです。

 この点については、私自身がどちらかと言えばシロクロを早くつけたいタイプなので、必ずしも充分に理解・納得しているわけではないのですが、現代社会という大きなレベルで考えると、トライ&エラーのやり方を採用して誤った場合の悪影響が、文明の発達によって極端に大きくなっているという認識に立ったうえで、問題によっては、特に環境や国際紛争のような一義的に判断しにくい重大な問題の場合は、時間をある程度犠牲にしても、儒教的合理主義による漸進的アプローチで臨むことの必要性が高まっているように思われます。

 三番目の特徴は「修己治人」、一人の人間としての道徳的修養と、為政者としての民衆の統治とを、不可分なものとして考える点です。孟子は、当時の状況を反映して、社会が「君・臣・民」の三者で構成されることを前提にしていますが、その主体間の「君臣関係」については、民衆のレベルまで含めて「双務的な関係」としてとらえており、被治者を大事にしない(=徳の無い)為政者は交代させるべきだ、と考えている点が注目されます。もっとも、その後の漢代以降の儒教は、政治権力の集中が進む過程で、上下関係を強調し、片務的な性格が強まる方向に変質しており、この変質した後の内容が「儒教の封建倫理」として、現在ややもすると批判的にとらえられている、というのが私の理解です。

 この「儒教の封建倫理」が強化されてきた期間は、洋の東西を問わず、主要な生産手段がヒトの労働力に限られるなかで、できるだけ大きな成果(戦争での勝利、生産物の増大)をあげるために、「ヒト・モノ・カネ・情報」といった資源を集中させて効率的に管理することが、競争力の源泉でした。そういった状況の下では、組織内部を安定させることが何より必要という意味で、「血統による正統性」や「儒教的封建制」にもそれなりの経済的合理性があったと考えられます。しかし、そうした人類の弛まざる努力の成果として「単位当り生産性」が劇的に向上したこと、需要の中身が大きく変化したこと等により、近年は、資源を極端に集中させ、それを大規模な階層組織により管理・運営することが、必ずしも合理的とは言えない状況や組織が増えています。

 こうした変化を反映すれば「儒教的封建制」の内容も当然見直されるべきでしょう。その点で、「君、君たらずとも、臣、臣たれ」を誤りとする見方にはほとんど異論は無いと思いますが、「個人の欲求を全体とのバランスのなかで考えることを否定的にみる」考え方については、私は反対です。民主主義という政治理念のもとでは既に、また経済的な意味でも、一般大衆が「被治者であり、かつ統治者でもある」といった状況にほぼ近くなっているのですから、「力を持つものはそれだけ大きな道徳的義務を負うべき」という「儒教本来の考え方」にそくせば、個人が自発的に全体に配慮する意識は、むしろ強くなってしかるべきだと考えるからです。

 以上のような「儒教本来の考え方」と比較した場合の「日本的な儒教」の最大の特徴は、いつわりのない真心を意味する「誠」の強調にあり、江戸時代から敗戦までの日本の君臣関係はどちらかと言えば片務的な性格が強かったと言われています。また、日本人の特徴として、どちらかと言えば、ものごとを単純明快にするほうを好み、気が早くて「良い」となったら突っ走る傾向がある、概して新しいものを良いと考えがち、論理よりも情、理性よりも純粋さに重きをおく傾向がある、といった意見には、私自身を省みても認めるべき点が多いように思われます。そうした日本人の精神的特性が、「日本的な儒教」により助長された結果として、「義理」と「人情」の板ばさみの果ての自己犠牲や、“ただ至誠のあるところを示して批判を後世にまつ”急進的な維新の志士のような、どちらかと言えば悲壮感を伴った行動に対して日本人が美意識を感じるようになったのかもしれません。

 そうした視点から最近気になる動きが、政治家に対する批判報道があい変わらず多いことに加え、官僚批判の出版が増えていることです。自浄作用として積極的に評価することもできますが、問題は、一般的な受け止め方が、もっぱら道徳的観点から批判することで溜飲を下げる、といった意識にとどまりがちな点です。そうした批判を展開する一方で、リーダーなのだから何とかしろと要求し、決定されればその内容にかかわらず唯々諾々と従うといった反応は、まさに、「修己治人」の精神が、もっぱら被治者の立場からみた歪んだかたちで、日本人の心理に根付いていることの現われではないでしょうか。個人の尊厳を守るには「国家」による保護が不可欠であること、それなりの機能を持った官僚機構がなければ中程度の「福祉国家」さえ実現できないことは、あらためて述べるまでもありません。リーダーを無責任に批判するのではなく、少なくとも役割を果たす覚悟を持っている人物や組織に対しては、むしろ積極的に協力するべきだと思います。

 最後に、「現在の日本と世界が抱える問題」についてですが、単純化すれば、「グローバリゼーションの限界を見据えたうえでの新しい資本主義のあり方」に関する意見の対立と不透明感、と言えるでしょう。グローバリゼーションとは、各国の資本主義体制を、米英型の「市場ベース型」に一元化しようとする、良く言えば福音的、悪く言えば原理主義的な考え方です。リーマン・ショック後は、「市場経済や資本主義そのものに均衡化や自己調整の力をみて、社会諸関係をすべて市場化していくことこそ正常な発展の道だ」とする新古典派経済学の考え方は、現実の人間社会(特に失業等のリスクに対する耐性が大幅に低下した現代社会)にそのまま適用するには無理が大きい、という考え方がコンセンサスとなりつつあります。「西欧的な意味での合理性はあっても、儒教的な意味での合理性は無い」ということに世界が気付き始めているのではないでしょうか。

 市場主義に代わる資本主義モデルのヒントとしては、「比較資本主義分析」の考え方が注目されます。これは、各国で異なる比較優位産業が生み出される背景の類型化を通じ、より望ましい資本主義のかたちを考察するもので、ポイントは、①各国の資本主義と、政治・労働・教育・社会保障・文化といった社会的な諸制度との間には補完的な関係がある、②これらの制度はいずれも国際的な共通化が困難なものであり、その違いこそが各国の「資本主義」を独特なものにしている、という考え方です。下図は2003年時点のモデルですが、「福祉(社会保障)」とは産業構造が転換する際に避けられない失業・転職のコストを誰が負うのか、「教育」とは就業者として必要な技能・能力の教育を誰が行うのか、と考えれば分かり易いと思います。

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 ここで日本が韓国とともに分類されている「アジア型」は、まさに「儒教資本主義」とも表現されてきたものです。明治維新からバブル崩壊までの近代化と奇跡の高成長は、「日本的な儒教」のなかにある、勤勉、誠実、商業道徳、自己や家庭より組織(会社)優先といった国民意識に裏付けられた、年功序列や終身雇用を特徴とする諸制度が、当時の日本を取り巻く環境に理想的に適合した成果と言えるでしょう。先人への非礼をご容赦いただいて、あえて皮肉な言い方をすれば、当時の日本人の国民性に支えられて、急速にそしてある意味で無節操に遂行された結果、という見方さえできるかもしれません。

 「比較資本市場分析」には、今後の日本がどのモデルになるという回答ではなく、企業や個人を取り巻く環境(諸制度)がどの方向に向かっているのか、そのなかで企業や個人が自己の目指す目的を実現するためには、何をどういった形で補い、また対応すれば良いのかを考えるためのロード・マップとしての役割を期待すべきでしょう。実際の各国の資本主義は、アメリカ型への一元的な収斂という単純な動きではなく、各国諸制度のハイブリッド化や新たな多様化・構造化が進みつつあるようです。またそうしたなかでも、モノからサービスへ、労働から情報・知識へ、物質中心から人間中心へといった、各国に共通する歴史的な底流が存在するように思われます。

 そうした問題意識から目をひいたのが日経新聞の「C世代賭ける」の連載です。抜粋すると、「ジェネレーションCはここ数年米国で使われた言葉だ。年齢は限定しないが基本的に若者。Computer, Connected, Community, Change, Create 等を意味する。… オープンでフラットな関係を好み、コンテンツを発信し、情報を共有し、政治や企業に透明性を求める。」と定義されています。あえて年齢を特定すれば、米国では1960~1974年生まれの「ジェネレーションX」に続く世代、日本では1971~1974年生まれの「団塊ジュニア」に続く「ポスト団塊ジュニア」以降の世代を指すようです。この「ポスト団塊ジュニア世代」の男性について、厚生労働省は2011年の『労働経済白書』で、「他の世代に比べて非正規雇用から抜け出せない人の割合が高く、この世代の若者に非正規雇用拡大のひずみが集中した」と分析しています。そういった意味で、日本のC世代とは、労働福祉を個別企業単位が中心となって支える「ミクロ・コーポラティズム」の枠組みを前提としない(=既得権益を失う恐れから解放された)最初の世代と言えるのかもしれません。

 「ミクロ・コーポラティズム」喪失の不安から解放された後の日本社会は、「坂の上の雲」を目指す高成長路線への回帰よりも、穏やかな成長の下で自分自身のなかに価値観を求める、良く言えば成熟した社会になるのではないでしょうか。そうであれば、子供(赤子)の純粋さや青年の気概よりも、大人の冷静な思考、すなわち、自己の存在意義を常に意識し、自己の立ち位置と進むべき方向を自分で意思決定し、周囲に主張すべきは主張し妥協すべきは妥協するという「儒教本来の考え方」が、個人・企業・国家といったあらゆるレベルで必要になってくると思います。IRの視点に置き換えれば、「企業理念」を通じて自社の存在意義(目標)をステークホルダーにしっかりと訴えていくこと、また、それを具体化する「中・長期計画」では環境の変化に応じて生産、経営等の体制をより適切なものへと柔軟に組み替えていくことが、真の意味で重要になってくると考えられます。

 “遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけむ 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそゆるがるれ”。「平清盛」でも使われたこの歌は、後白河法皇(昨年ブログで紹介した「熊野御幸」34回の最多記録保持者)が、当時流行していた今様を集成した「梁塵秘抄」に収録されており、末法思想を色濃く反映して法文歌(仏法を説いた歌)が多数を占める同歌集のなかでは、比較的めずらしいタイプの、子供の純真な愛らしさを歌ったものと言われています。

 動詞の「あそぶ」には、単なる「ヒマつぶし」や「もてあそぶ」の意味だけでなく、①命令・強制や義務からではなく自分のしたいことをして時間を過ごす(=play)、②学芸修行のために他郷へ行く(=study abroad)といった積極的な意味もあります。また、名詞の「あそび」は、③機械の部品と部品との間の余裕(=allowance)といった意味でも用いられます。私自身は、「アソビをせんとや生まれけむ」を、①日常業務と自分の関心との接点を探り極力創造的な姿勢で臨む、②情報の収集に努めることで自分の認識を常に検証する、③多くの意見を取り入れて拙速に結論付けないように心がける、といった意味にとらえたうえで、知行合一の充実した1年にしたいと思っています。

(トーマス)

2012年1月10日 (火)

アジアの投資家

Ir_8s 国際通貨基金(IMF)は、CPIF(Coordinated Portfolio Investment Survey)という名前で世界の対外証券投資のデータを集計している。同データベースによると、2009年末の世界の対外株式投資残高は13兆6700億ドルで、世界の取引所時価総額の27.4%を占めている。2001年から2009年にかけての対外株式投資残高の伸び率は2.63倍と、世界の株式時価総額の伸び率(1.87倍)を上回っており、クロスボーダーの株式投資が市場の成長を上回るペースで拡大してきたことがうかがえる。
 国別の投資残高の伸び率を比較すると、最も伸び率が高いのはノルウエーで、01年から09年までの8年間で8.5倍に拡大している。同国の政府年金基金による対外株式投資の増加が主な背景だ。ノルウエーに次いで伸び率が高いのが香港(5.3倍)、シンガポール(4.9倍)などアジアの金融センターである。
 対外株式投資残高に占める構成比の変化をみると、先進国の地位の低下が明らかである。全世界を100とした場合の主要先進国の構成比は、対外株式投資の受入国としてのシェアが01年から09年にかけて9.0ポイント低下し、資金の出し手=出資国としてのシェアも同期間に6.5ポイント低下している。代わって存在感を増しているのが途上国市場、とりわけアジア諸国である。
 アジア諸国の構成比は株式投資の受入国としてのシェアが6.2%から12.9%へと倍以上に増え、資金の出し手=出資国としてのシェアも3.7%から7.3%へ上昇している。09年末における香港からの対外株式投資残高は49.8億ドル、シンガポールが15.3億ドルで、両者を合せると日本の59.4億ドルを上回っている。アジア諸国は投資対象国としてだけではなく、株式投資の出資国としても無視できない存在になっている。
 日本株投資に関しては、欧米の機関投資家を中心に、アジア株の運用拠点を香港、シンガポールに集約し、東京の日本株運用拠点をそちらに集約させるという話をよく聞く。カネの集まるところにヒトやモノが集まるのは自然な流れである。また、日本株のリサーチ・チームをアジア株のリサーチ・チームに統合させるという動きも出ている。
 その一方、日本企業は海外事業展開を加速している。その主たるターゲットはアジア市場である。紙おむつの世界シェア10%を目標に掲げるユニ・チャームや豪州、アジアの飲料企業の買収を矢継ぎ早に進めるアサヒグループホールディングスなど、海外市場、とりわけアジア市場の拡大を成長の柱に位置付ける日本企業は多い。日本企業がアジアとの相互依存関係を強めれば強めるほど、投資家は、日本株を独立したマーケットとしてではなく、アジアマーケットの中の一銘柄として見るようになる。
 そうなると、日本企業もIRの中身を変えていく必要があるのではないか。拡大するアジアという文脈の中で自社の成長ストーリーをどう描くかという点と、中国や韓国のライバル企業に対する自社の競争優位を投資家にどう訴えるかが重要なポイントと考えられる。
 もうひとつの課題はアジアの機関投資家に対するIRアプローチの強化である。海外IRを実施している上場企業は多いが、訪問先は北米、欧州が中心であり、香港やシンガポールを訪問する企業はまだ多くはないようである。
 欧州の財政危機や中国経済の減速懸念などから世界的な株安連鎖がアジアの株式市場にも波及しているが、長い目で見ればアジアにおける資本蓄積が対外投資を拡大させることは間違いない。日本株の投資家としてアジアの重要性は今後ますます高まると予想される。
 欧米の機関投資家に比べればアジアの投資家の日本企業に対する理解度はまだ低いという話も聞くが、そうであればなおさら、アジアの機関投資家との関係構築に粘り強く取り組んでいく必要があると考える。

2011年12月19日 (月)

破壊の年

Ir_1s早いもので、今年最後のブログとなりました。色々な災いの起きた年となりましたが、今年を振り返ってみたいと思います。
まず、2011年年明け最初のブログを担当し、バイロン・ウィーン氏の2011年予想を紹介しましたので、まずは、今年の締めとして予想の結果を検証してみたいと思います。

バイロン・ウィーン氏の2011年予測(2011年のサプライズ)
1.失業保険の延長を伴うブッシュ減税の継続が米国の労働者の心理を好転させる。実質GDPが貿易と資本支出の改善に加えて小売売上げが強まることで2011年成長率が5%にまで高まる。失業率は9%を下回る。
→GDP成長率は予想の中央値が2.0%と大きく下回った。失業率は、11月末で8.6%と予想どおり。

2.連邦財政赤字と政府負債の拡大予想でついに債券市場が圧迫されてくる。外国人投資家の要求が厳しくなり米国債10年物の利回りが5%に到達し、社債との利回り差が縮小する。
→財政赤字と政府負債が巨額である状態には変わりはないが、赤字の比率は若干低下、10年債の利回りは、2.06%と各国の格下げが相次いだにも関わらず低下。

3.経済の勢いが復活したことに勇気付けられてS&P500は1500の過去高値にまで上昇する。値上がりは幅広いセクターに及ぶが通信と公益は出遅れる。利益の改善に伴い、バリュエーションが安くなり個人投資家が金融危機後初めて株式に戻ってくる。M&A活動が活発化し、市場はユーフォリアに近づく。下期には金利の上昇につれ株式は調整する。
→4月29日に1363の高値を付けた後にボックス圏の展開となった後、8月に急落。ユーフォリアを迎える前に失速。

4.インフレは引き続き無視してよい水準にとどまるが、世界中の投資家が資産をより実物資産へシフトさせることにより、金価格は1600ドルを突破する。大量のドル準備を持つ国々のSWFが大きな買い手となる。ヘッジファンドは価格上昇が鈍化し下落に転じると考えポジションを整理し、金属にはショートポジションも取る。しかし、金価格は上昇を続け、慌てて買戻しを行う。
→金価格は9月6日には1888ドルにまで上昇。新興国においてインフレは政治問題となり金融は引き締め気味に転じた。

5.インフレと過剰な成長を懸念し、中国が自国通貨を政治的道具として活用することを決定する。経済成長率を10%未満に抑え、消費者物価指数を4-5%の上昇に収めるために人民元の価値を積極的に管理する。この動きは、主要準備貨幣としてのドルの代替貨幣として人民元をバスケットに加える世界的な調整の前兆として捉えられる。
→第3四半期のGDP成長率は9.1%に鈍化し、消費者物価指数は7月には6.5%まで高まっていたものが11月には4.2%にまで低下した。元は対ドルで穏やかな上昇傾向を続けている。また、日本株投資においては「SSBT OD05」の存在感が高まっている。

6.新興国における生活水準の向上で、農産物への需要増が深刻化する。トウモロコシが8ドル、小麦が10ドル、大豆が16ドルに値上がりする。商品がより多くの機関投資家のポートフォリオに組み込まれるようになる。
→トウモロコシが5.9ドル、小麦が5.7ドル、大豆が11.1ドルと、2010年平均のそれぞれ4.3ドル、5.8ドル、10.5ドルから大きな変動はなかった。

7.住宅市場が改善する。住宅在庫は引き続き高水準であるが、供給過剰の状況は著しく改善し、2010年において在庫が増えたのとは対照的となる。ケース・シラー住宅価格指数は徐々に高くなり、住宅着工件数は60万戸を超える。
→ケース・シラー住宅価格指数はマイナスが続いているが、住宅着工件数は60万個を超えている。

8.新興国からの引き続きの需要増と新規供給を増やすことに失敗したことで石油価格は115ドルまで上昇する。ガソリン価格の値上がりにもかかわらず、走行量は減らず、ハイブリッド車の販売が増加するか、そうでない場合は、議会は石油資源保全対策を講じることとなる。
→石油価格は(WTI)4月29日に115ドルに達した。米国は石油純輸出国となった。

9.タリバン対策に進展が見られず、カルザイ政権が崩壊することに失望して、オバマ大統領は米軍を帰還させることを決断し、アフガニスタンは再び軍閥による部族支配に戻ることとなる。オバマは軍人の撤退を加速させ、今年末までにはほとんど撤退が完了する。イラクにおける軍の撤収をあわせ、中東を主要な西側のプレゼンスのない状態にすることで、高まるテロの脅威に直面することとなる。
→オバマ大統領と軍部との意見相違が浮き彫りとなり、オバマ大統領の計画より撤退スケジュールは遅くなる見通し。

10.メルケルが欧州の財政改革を主導する。財務内容の悪い国は、2014年までに財政赤字を半減することを約束することを条件に、EUと厳格なプログラムを遂行する限りIMFより追加支援を得ることとなり、増税するものの穏やかな成長を続けることとなる。欧州の財政危機への懸念は薄らぐ。こうした政策の実施で金融市場は心理的には満足するが、一時しのぎであり根本的な解決策ではないために、長期においては有害なものとなる。
→EUは、英国と独仏の意見対立が鮮明となったが、①放漫財政への自動的制裁、②国の予算編成への介入制度創設、③財政赤字ゼロの義務付け、という3段階の財政規律強化で合意した。ただ、市場の不安を鎮める即効性のある施策には欠けており市場の混乱は続いている。

予想に関しては、当たったものもあったといった程度でしょうか。もっとも、この予想は、平均的投資家の予想に反して起きそうなニュースということですので、起きてはほしくないけれど、やはり予想していた悪いことが起きてしまったということが多かったことを示しているようです。特にユーロ問題は懸念していた通りになってしまったということでしょうか。

世界的にも年間を通して暗いニュースに覆われていましたが、それでも、日本においては3・11の東日本大震災前には比較的明るいムードでした。ただ、この時を境に、悪いニュースばかり続き、憂鬱な1年間となってしまいました。唯一といっていいくらいの明るいニュースは「なでしこジャパン」のワールドカップ優勝でしょうか。肉食女子、草食男子という言葉も良く使われましたが、スポーツ界においては女高男低と日本においては女性に勢いがあるようです。
元気な日本の女性ですが、管理職に占める女性の割合は8.0%(平成21年度:厚生労働省調べ)と低い水準に留まっています。部長職に至っては3.1%と極めて例外的な水準です。スポーツ界における日本の女性の活躍に比較して、なんだかアンバランスな気がします。これは女性自身の問題なのでしょうか。違うような気がします。
さて、今年は特に日本の社会全体におけるガバナンスの欠陥が表に現れた年ではなかったかと思います。
福島第一原発事故では、「想定外の津波」によるとの立場を、社内調査の中間報告でも堅持した。専門家から10mをはるかに超える巨大津波の可能性が再三指摘されていたにもかかわらず、そうした意見が無視されてしまったのは、ガバナンスの欠陥によるものではなかったと考えられます。安全性を評価する委員会のメンバーには様々な意見を持った中立的な委員の数が少なく、結果として会社の方向性に歯止めをかけることができなかったと言われていますが、これは、オリンパスと似た構図ではないでしょうか。
今後、日本の企業に対しては、ガバナンス体制に対してこれまで以上に厳しい視線が向けられるものと考えられます。自分たちの事業が分かっていない人に経営に関与してほしくない、邪魔をしてほしくないとの気持ちは分かりますが、今年起こったことに鑑み、その失うものの大きさと、自分たちだけでなく日本全体に及ぼす影響を考えると、方向転換する必要があると思います。今年起こった様々な事件は、その時期が来たということを伝えているのかもしれません。
社外取締役を入れるという形式的なことではなく、専門性を持った中立的立場の人たちが中心をなす取締役会にすると、経営者の暴走を防いだり、同じ会社や業界にいたのでは気付かなかったような視点でのアドバイスを得ることが期待できます。さらに、様々な発想を持った系統の人たち、つまり女性や外国人を加えると、ダイバーシティということになります。オリンパスの場合は、社外取締役ではなく、外国人社内取締役によって隠された不正が暴かれることになりました。だから、こういった人たちはサークルに入れたくないということにもなりかねませんが、これでは、投資家はたまりません。その結果として、外国人投資家が投資をためらうようになりかねません。
オリンパスの事件は、直接的には日本国民に悪影響は及ぼしていませんが、福島第一原発は今でも特に福島の人々を苦しめていますし、それ以外の人達でも風評被害や電気料金の値上げなどで苦しめられています。この件を、ガバナンスの問題として捉える向きはあまりないように思えますが、実は、ガバナンスの欠陥が引き起こした最悪のケースではないかと捉えています。
東電もオリンパスもまだ総括は終わっていませんが、今年は、来るべき幸せの時代のための破壊の年であったと、将来位置づけられるためにも、しっかりとした総括とその反省に立った改革案を設定実行してほしいものです。
来年は真の意味でのガバナンス元年となるように期待しています。

(傍目八目)

2011年12月 5日 (月)

幸せの国

Ir_10sおとぎ話のタイトルでも、宗教の話でもない、現実の世界の話である。
最近、世界の国々で様々な「不幸せな」事件が起こっている。ユーロ危機、アメリカのデモ、等々。

このヨーロッパ、アメリカで起きていること。これはいずれも、経済格差、がキーワード。経済的な体力に格差がある国々の間で起きた問題、収入に格差がある人々の間で起きた問題、である。

ヨーロッパでは、財務健全性の低いギリシャなどの国々に、財務健全性の高いドイツなどの国々がどう手を差し伸べていくか、まさに今EU首脳会議に向け、「緊張の10日間」の真っ只中である。この問題、「アリとキリギリス」に例えられることもある。ギリシャ=キリギリスと、単純化できるものでもないし、その必要もないと思うが、ポイントはそこではない。
元々格差のある国々を、その格差を顧みずにまとめようとしたことが問題の一つではないか。イギリスがユーロの導入に踏み切らない要因の一つもここにあると考えられる。2度の大戦をきっかけにスタートし、ベルリンの壁崩壊により加速したヨーロッパの統合、政治主導で始まり、経済の統合も図られてきた。しかし、ヨーロッパ域内の経済大国が主導した、「定量的」な基準による経済統合は、今後の各国の対応によっては、ユーロ崩壊という最悪の事態にもつながりかねない。

アメリカでは、上位1%の富裕層に国全体の富の40%が集中しているという。残る99%の人々がその格差解消を訴えて始まったのが今回のデモである。この動きはウォール街から始まり、アメリカ国内にとどまらず、世界各地に広がっているという。収入の格差の問題は、どこの国にもあるのだ。
労働者が提供する能力に応じて収入が決まる、というのが教科書的な話であり、それに則れば、収入格差が生じるには理由がある(能力格差がある)、ということになる。(もちろんそう簡単に割り切れるものでもないし、それを放置するべきでもない。しかし、そこに生じる格差を埋めるのは国の仕事であり、格差に対して批判があるとすれば、「1%」に向けられるべきではなく、行政に向けられるべきものであると考える)
特にリーマン・ショック以降顕著なのが、ウォール街の金融機関で働く者の所得水準についての批判的な論調だ。確かに、不当に利益を得た場合も、税金により救済された例もあるだろう。それは批判されるべきである。しかし、その能力に応じた収入を得ている場合が圧倒的に多いように思う。ここで引用することは適切でないかもしれないが、イチローはその価値があるから数十億円の年俸を得ているのである。
デモに参加している人達は、「定量的」な基準による経済格差しか見ていないのではないか。

以上は「不幸せな」国の話。次に「幸せな国」の話。残念ながら日本のことではない。先日の国王夫妻来日のニュースで知名度がかなりアップした、ブータンである。
「国民総幸福量」を指標にするブータンは「世界一幸せな国」を目指している。この指標、定量的なもの、経済的なものではないのである。あくまで定性的に、国民が今幸せを感じているかどうか、を基準に構成されている。この定性的な基準で判断する、というところが、他の国の考え方と決定的に違うところである。ヨーロッパやアメリカにおいてもこうした考えは広まりつつある、と言われているようだが、上記のような例を見てしまうと、それは疑わしい。
また、報道された国王夫妻の姿に癒される人がいるという。そこから出てくる「幸せ」というイメージや、これまでブータンに関する情報がそれ程多くなかったことなどから、ブータンに対し何か神秘的な、良いイメージを抱く人も増えているらしい。
ブータンの選択が100%正しい、と言いたい訳ではないが、「それもあり」なのではないか。

これらの国々を見て、経済的な価値のみによって物事を判断することの限界を強く感じる。
何事においても、定量的な基準のみではなく、定性的なものも加えて判断する。そのバランスが重要なのである。判断に当たり、判断される側によって十分な情報が提供される。これが大前提であるのは言うまでもない。

(ぴろこん)

2011年11月21日 (月)

監査役の有効性

Ir_7s 巨額な資金がからむ大王製紙やオリンパスの不祥事が明るみに出て、日本のコーポレート・ガバナンスを巡る議論にもはずみがつきそうである。このような事件を受けて、今、一番緊張感を感じているのは監査役の方たちではないだろうか。不正を見抜けなかったのかという批判を受けるだけでなく、訴訟の対象となってしまうこともあるからである。

率直に言って、従来監査役のポストは、長年勤続し会社に貢献した人に報いるために会社が用意したポストという側面が否めなかった。しかし、最近の株主や投資家は監査役に対し、取締役の違法行為をチェックし、会社の適法性を保つという本来の機能を期待している。社外取締役の導入を義務付けるべきだという議論に対し、日本では監査役制度があるから、と反論の材料になっているのも、監査役に外部からの目としての監督機能を期待しているからである。そのような監査役であるが、オリンパスでも、副社長まで勤めた後、監査役に就任していた社内監査役の一人が、事件に関与していたとして辞任の意向を示した。

では、社外監査役はどうだろうか。社外監査役は、バブル崩壊後の損失補填等の不祥事をきっかけとして平成5年の商法改正で設置が強制されることになった。大会社については3人以上の監査役の設置を強制し、そのうち1人以上は社外監査役であることが義務付けられたのである。その後平成13年には、必要員数が監査役総数の半数以上と定められた。社外から目を光らすという目的とそれを担保するための必要員数の制定はよく理解できるが、実際にはどれだけ有効に機能するのだろうか。実際問題として、社外とはいっても、候補者は会社が自分で見つけてこなくてはならない。報酬を支払うのも会社である。自分をチェックする人に自分で報酬を支払うという形になっている限り、監査役制度の有効性には限界があるのではないか。監査役は、報酬を支払ってくれる人に対してどこまで厳しいことを指摘したり、強い対決姿勢をとることができるだろうか。

そこで、私に提案がある。監査役候補者をプールしておく組織を作って、監査役はそこから派遣されるという制度にしたらどうだろうか。会社は、このプール組織に監査役の年収をカバーできる程度の年会費を支払う。そして、監査役を派遣してもらう。会社は、この組織が派遣すると決めた監査役を拒否することはできない。監査役の報酬は、このプール組織が支払い、監査役が会社から報酬を得ることはない。このようにすれば、監査役にとって自分の位置付けと役割が明確になるのではないだろうか。監査役が誰の方向を向いて仕事をするのかが自然と決まってくると思うのだが、如何。

(雨やどり)

2011年11月 7日 (月)

新しい理論

Ir_3s   小職は理系の出身である。在学中、友人からは理系ではなく文系に見えるとよく言われたものだが、それは今回の本題ではない。
 今は昔で、大学時代に習ったことは忘却の彼方にある。もっとも勉学に励まなかった小職の場合、覚えたものが少ないので忘れてしまったものも少ない。これも今回の本題ではない。
 先生方にご教授いただいた事柄のなかで、今なお覚えているのが、2つある。1つは、「自然現象の理論化の際には、始めに単純化して考えるべし」。もう1つは、「些少なことはさておいて、本質的に重要な要素を中心に理論構築を試みるべし」。

<単純化すべし>
 自然現象は様々な要素によって決定されている。最初から思いついた色んな要因のすべてを変数化して、説明式を作ろうとしても、ほとんど上手くいかない。
 まずは、その事象の説明度が最も高いと思われる要因(変数)1つのみとの関係式をとりあえず作る。当然、実際の事象(実験結果)を完全に説明できない。次に、2番目に重要と思われる要因(変数)の関係式への組み込みにチャレンジする。これが、上手くいったら次は3番目といった具合だ。4番目も上手くいくと思ったら、どうにもならない。そこで、関係式そのものを根底から考え直してみる。こんな作業の繰り返しで、最後に何とか方程式みたいなものができる。これが案外シンプルですっきりしたものだったりする。
 そう言えば、「神は単純で美しいものを好む」など言ったのはアインシュタインだったか。アインシュタインの特殊相対性理論の根幹をなすE=mc2は極めてシンプルな式なのだ。
 こういう例え話も講義中に聞いたような気がする。自然現象ではなく数学の公式の話だが、球の面積を求める式をいきなり導き出すのは結構難しい。しかし、円周を求める式 ⇒ 円の面積を求める式 ⇒ 球の表面積を求める式 ⇒ 球の体積を求める式 というふうに単純な式から複雑な式へと簡単に展開することができる。単純な真理を上手に展開していけば、その上の真理を得ることができると。

<本質を探るべし>
 これをおっしゃった統計力学の先生のお顔は今なお思い出すことができる。前後の話は全く忘れたが、「琵琶湖に塩を一升溶かし込んで、その塩分濃度がどうなり、琵琶湖にどういう影響を与えるか心配してもしょうがない。塩分濃度はゼロと考えても全く支障はない」というお話だった。物理的現象を解明するうえで、瑣末な事象やファクターはとりあえず無視しておいて、本質的な側面に重きをおいてアプローチしていくべきであるという説明のなかでのお話であったと記憶している。細かいことを気にしては、本質は見抜けないと理解した次第である。
 
 「単純化すべし」、「本質をみるべし」の類は、社会科学の入門書籍やノウハウ本、マーケティングの本などに嫌というほど出てくるフレーズで、誰でもわかっている当たり前のこととして理解されている。
 しかし、小職の場合まだ脳がまだ柔らかく社会に出る前に聞いたことに意味があるのだろうと思う。小職は調査、企画、コンサルティングというキャリアを重ねているが、先生方の教えは、まぁそれなりに自分の中にビルトインされている感はある。小職は細かい部分に気が走ってしまうきらいがあるが(これはこれでいいアイディアを得ることもあるが)、これを諌め論理の展開を幹に引き戻すことに役立ってくれているように思う。

 最近、コーポーレート・ストーリー(エクイティ・ストーリー)作成アドバイスの仕事が続いている。この種のアドバイスを行うなかでの「単純化する」と「本質を探る」は、企業のコア・コンピタンス(競争力の源泉)を見出す作業に感覚的に少し似ている。競争力の源泉をすぐに炙り出すことができる場合もあるが、さんざん議論した結果「これでいってみよう」となる場合もある。コア・コンピタンス(競争力の源泉)を上手く掴めることができれば、ビジネスモデルや経営戦略の説明も投資家に対してすんなりと通り易い。

 しかし、利益やCFの増大といった結果が出なければ、そのストーリーが間違っているか、戦略の実行が伴っていない、ことを意味する。間違っている場合は、「コア・コンピタンス ⇒ ビジネスモデル ⇒ 経営戦略」の図式を再検討する必要がある。

 物理学は、大きく理論系と実験系に分けられる。実験等で観測された現象を方程式などで説明するのが理論系である。一方で、こういう現象が観測されるはずであるという理論が先行し、測定技術の発達のおかげで、10数年後に理論の正しさが証明されることもある。
 無理やり企業活動と物理学を結び付けるならば、「コア・コンピタンス ⇒ ビジネスモデル ⇒ 経営戦略」は「理論」、企業の利益やCFは「実験結果」ということになる。思うような実験結果がでなければ、それは理論が間違っているか、正しい実験を行っていない(戦略を正しく実行していない)ことになる。逆に、業績が大幅に拡大・悪化した企業の「コア・コンピタンス ⇒ ビジネスモデル ⇒ 経営戦略」を後から評価する(理論づけする)こともある。

 円高等で企業業績は下方修正気味で、振り返れば、今再びどころか、三たび、四たびと国内空洞化の懸念が台頭している。投資家の売買も細っており、まさに先行き不透明という様相である。
 実験結果が上手くいかないのであれば、新しい理論を構築するしかないと思う。物理学は単純系を前提に“絶対解”を求めればよいが、企業経営は人間の心理や外部環境という複雑系のなかでの「最適解」を求めるしかない、という反論は十分承知しているが。。。。。。 

(竹馬と桃)

2011年10月24日 (月)

政策決定と「Pros&Cons」

Ir_4s 世界経済はリーマンショック後、一時的な回復の後、二番底を探る展開となっており、我が国経済もグローバル経済の大きな流れの中にある。個別に企業を見れば、成長するアジアに進出し成功を収めている企業、スマートフォンに代表される新たなネット社会の到来のなかで収益を伸ばしている企業など明るい部分もあるが、日本経済全体としては、なかなか浮上できない状態が続いている。この地盤沈下からなぜ抜け出せないか。

 先の戦争において、わが国の都市は焦土と化し、今とは比較にならない悲惨さであった。国民の意識は何とかこの「食べられない状況」から抜け出したいとの一心であり、国民の大多数は、経済復興という共通の目標を抱いていた。このことが国民一丸となって奇跡の経済復興を成し遂げた大きな要因だろう。ところが現在は、TPP参加、原子力発電、税金、社会保障改革など国家の方向性を決めるような議論において、賛否両論があい拮抗し、なかなか国民的なコンセンサスが生まれない。マスメディアも賛否を断片的に伝えるだけである。背景には、経済成長という当初の目的を達成し、豊かになったことがあるだろう。その結果、皮肉にも国家としての一体感が失われてしまった。国民各層に既得権益といった意識が芽生え、今得ているものを失いたくない、変わりたくないというマインドが巣食ってしまった。このため議論が纏まらず、加えてリーダーシップ不在のために政策決定のスピードが遅い。ここまで発展した社会において国民の間に利害の対立が生じるのは仕方ないが、グローバル経済の進展や少子高齢化など環境の変化は待ってくれない。

 利害が複雑に入り組んだ現代社会にあって国民共通の目標が望めないなか、政策の決定はどうあるべきか。妥協策を模索しつつ、賛成・反対双方の言い分を聞いたうえで進めざるを得ない。どのような政策をとるにせよ、それぞれにメリット、デメリットがあり、それらを比較評価したうえでどちらかを選択しないと先に進まない。

 そのような選択を迫られたときのひとつの意志決定プロセスとして、「Pros&Cons」が有効だろう。ある課題について、双方の立場からそれぞれメリット、デメリットを出して論点を明確にさせる。自分からデメリットは出しにくいと思われるが、自分の立場を通すために都合のいいデータを並べて主張するだけでは、説得力は生まれない。オープンな土俵の上で賛成・反対両派がそれぞれの政策のメリット・デメリットを説明し、第三者からみても分かるようにする。そのような議論を踏まえ、論点整理をしたうえで国民に判断を仰ぎ、政治家は結果責任を引き受ける覚悟をもってスピーディに政策を実行に移す。マスメディアには、率先して「Pros&Cons」の土俵作りの役割を果たしてもらいたい。ソーシャルネットワークの影響が無視できなくなっている昨今であるが、表面的な情報だけで行動しても事態の改善には繋がらないし、国民の判断力も高まらない。自力で方向性を選択できるうちに実行しなければ、外部からの力、それは市場か、国際機関か、更なる天災か、によってより厳しい政策が強制的に実行されるだろう。

(投資道)
 

2011年10月11日 (火)

IPOディスカウントパズル

Ir_3s 新規株式公開(IPO:Initial Public Offering)において、公開価格(一般公募価格)は機関投資家の評価やマーケット動向に基づいて決定されることが一般的ですが、株式公開後の市場価格(初値)は概して公開価格を上回ること、すなわち、公開価格が市場価格を下回るというアンダープライシング現象が生じることはよく知られています。企業側から見れば、市場価格と公開価格の差額に新規発行株数を乗じた分だけ資金調達額が減少するわけですから、機会損失が生じてしまうことを意味します。
このような現象は「IPOディスカウントパズル」として日本の株式市場だけではなく世界の株式市場において観察されており、多くの研究者・実務家の関心を集めてきました。どうしてこのような現象が生じているのでしょうか。

 Rock(1986)は、投資家間の情報の非対称性がIPOディスカウントの原因ではないかと考察しました。すなわち、公開企業の情報をよく知る投資家(情報優位の投資家)と公開企業の情報をあまりよく知らない投資家(情報劣位の投資家)とが存在する場合、公開価格が割安なときには両者がIPO市場に参加しますが、公開価格が割高のときには情報優位の投資家は参加せず、情報劣位の投資家のみがIPO市場に参加することになります。
その結果、公開価格が割高であれば情報劣位の投資家は損をしてしまいますので、このままでは情報劣位の投資家はIPO市場から退出してしまいます。そこで、そのような事態を避けるため(情報劣位の投資家をIPO市場に参加させるため)には、公開価格を一律に引き下げなければならず、IPOディスカウントの原因になっているのではないかと結論付けています。
なお、公開価格が割高なとき、情報劣位の投資家は新規公開株式を手にできるもののその後に損を被ってしまうという状態を指して、この仮説は「勝者の呪い(Winner’s Curse)」仮説と呼ばれています。

 一方、Allen and Faulhaber(1989)は、情報の非対称性に加えて企業のシグナリング行動がIPOディスカウントの原因ではないかと考察しています。すなわち、外部投資家が将来性のある企業と将来性のない企業とを区別することができない場合、将来性のある企業は将来性のない企業と混同されることによって、市場価格が本来よりも割安な水準に留まってしまいかねません。
ここで、将来性のある企業は、IPOディスカウントを受けたとしても、上場後に将来性があることが認識されれば、比較的容易に資金調達することが可能と考えられます。(逆に、将来性のない企業は、その後の資金調達が困難なので、IPOディスカウントを受け入れにくい)。そこで、将来性のある企業ほど、将来に対して明るい見通しを持っていることをシグナリングするため、敢えて公開価格を引き下げており、IPOディスカウントの原因になっているのではないかと結論付けています。

 今回、IPOディスカウントに関する代表的な理論的考察をご紹介しました。IPOに関連しては、他にもIPO後の長期的な株価パフォーマンスが市場平均を下回る現象などいくつかのアノマリー(例外的・異常な現象)が指摘されており、解明が進められています。

〔参考文献〕
Rock, K.(1986)“Why new issues are underpriced”
Allen, F. and G. R. Faulhaber(1989)“Signaling by Underpricing in the IPO Market”

(ひよこまめ)

2011年9月26日 (月)

国内運用会社の2011年総会議案議決権行使

Ir_2s 議決権行使結果の開示が制度化されたことに伴い、弊社では昨年から国内事業会社の株主総会議案に関する議決権行使結果の集計・分析を行っています。今年も、事業会社による臨時報告書の集計に続いて、国内機関投資家63主体が公表した行使結果の集計を行い、それらの分析結果に基づいて9月上~中旬に主要な国内機関投資家の十数社と意見交換を行いました。個々の国内機関投資家の議決権行使における特徴を、昨年からの変化も含め、具体的な数字として把握したうえで議論に臨むことにより、各社の背景や考え方に対する理解を一段と深めることができたように思います。

 集計結果(集計した63主体のうち集計手法が特殊な13主体を除く50主体のうち、議決権個数が多い順に25主体のデータの単純平均、特に断らない限り以下同)についてご紹介すると、会社提案合計ベースの反対率は2010年の15.9%から18.6%へ+2.8%ポイント上昇しています。議案数が多い取締役選任議案(+2.4%ポイント)と監査役選任議案(+3.5%ポイント)の反対率が上昇したことが、合計ベースでの反対率上昇の主因ですが、退職慰労金支給議案や剰余金処分議案等、比較的多くの議案類型でも反対率が上昇しており、こうした結果は事業会社臨時報告書の集計結果と一致しています。

 もっとも、こうした全般的な反対率の上昇をもって、「国内機関投資家が、2011年は、議決権行使に対する基本姿勢や、注目した特定議案の行使基準を、昨年に比べて厳しくした」と受け止めるのは、必ずしも正しくないようです。むしろ、「行使基準やその適用の仕方は昨年からほとんど変化がなかったにもかかわらず、議案類型による上程数の偏りやスクリーニング基準への抵触数が増加したことにより、結果的に(許容範囲内ではあるがイメージより)反対率が高めになってしまった」というところが、大半の運用会社の実感に近いと思われます。

 そうしたなかで、事業会社が投資家対応を進めてくれた点として、①比較的規模の大きくない事業会社で独立性の高い社外役員候補を増やす動きと、②ストックオプションの支給対象者を絞り込む動きを評価する一方、③買収防衛策導入議案については事業会社の提案内容に大きな変更が見られなかった、といったところが運用会社の基本的な受け止め方のようです。以下、主要な議案類型についてポイントを箇条書きすると、

1.取締役・監査役選任議案
・ 国内機関投資家のスクリーニング基準(業績、株価パフォーマンス等)に抵触する企業数が昨年に比べ増加したことが反対率を押し上げた。
・ 国内機関投資家の多くが、ROEや株価パフォーマンス(いずれも一定期間の絶対水準や相対順位で計測)等を、個別議案の賛否判断や議案精査対象の絞り込みに、何等かの形で反映させている。
・ マクロ環境等を考慮した定性判断の方向や度合い(昨年までの緩和を停止、今年は震災影響を考慮等)や、直接の該当議案が無い場合に反対意思を社内取締役選任議案に反映させる動きによる影響は、さほど大きくない模様。
・ なお、社外役員(取締役・監査役)選任議案に関しては、特に、日経225に含まれない規模の事業会社で独立性の高い候補者に入れ替える動きがあったことが確認されており、TOPIX【3月決算】会社の臨時報告書集計ベースでは、社外取締役選任議案と社外監査役選任議案のいずれも、反対率が小幅ながら昨年比で低下。

2.退職慰労金支給議案
・  監査役改選のタイミングに合わせて独立性の高い候補者に入れ替える動きがあったため、退任監査役に対する退職慰労金支給議案数が増加。監査役への退職慰労金支給に反対する投資家による反対数も自動的に増加したため反対率も上昇。
・  ISSが賛否判断のポリシーを昨年より厳格に変更(金額が開示されていない場合は、支給対象者が社内者であっても反対。昨年までは賛成)したために、外国人投資家の反対が増えた可能性。

3.新株予約権発行議案、役員報酬改定議案
・  複数の事業会社が、ストックオプションの付与対象者に関する内外機関投資家の行使基準に対応して、議案の内容や招集通知の表現を変更。
その1:ストックオプションの付与対象者の記載で、社外取締役を含まないことを明記 (例:ソニー、資生堂)
その2:監査役の報酬について、ストックオプションを廃止して固定報酬に一元化 (例:TOTO、東京海上HD)

 なお、主要な国内機関投資家の多くは、議決権行使に関する形式基準であるガイドラインの整備については一段落した感を持っているようで、今年訪問した先の多くで担当者の交代が見られました。そうしたなかで、今後の検討課題として、①より実質的な判断を行うための工夫(独立性基準の適用の仕方、事業会社との早めの対話、早期開示を促す)と、②株主価値を高めるための工夫(長期的なROE基準の引き上げ、包括利益の活用)をあげる運用会社もありました。

 今後も、事業会社の方々と運用会社の方々の架け橋として、実態を正確に反映し、専門性の高い情報を提供することにより、相互理解のお役に立てるよう努力していきたいと考えています。

(トーマス)

2011年9月12日 (月)

社長の支持率

Ir_8s 弊社では、昨年から上場企業の株主総会における議決権行使結果の集計を行っている。昨年と比較して、今年の行使結果で目立つのは社内取締役に対する反対票が増えている点だ。日経平均株価指数採用企業(3月決算会社)でみると、10%以上の反対票が入った社内取締役候補の人数は昨年の28名から今年は52名へ倍近く増えている。選任数は昨年が1755名、今年が1691名とほとんど変わりないので、反対率そのものがそれだけ上がったということになる。
 反対票のほとんどは機関投資家からのものと推定される。彼らが社内取締役の選任に反対するのはどんな時なのだろうか。そのヒントを探るために各社の社長だけを取り出して選任議案に対する反対率を集計してみた。機関投資家が投資先企業の経営やコーポレートガバナンスのあり方に不満を持つ場合、その代表者に批判の矛先が向けられることが多いためである。
 日経平均株価指数採用企業のうち、今年、社長を含む取締役選任議案を上程した会社は199社あった。199社の社長に対する反対率は平均で4.1%。これを委員会設置会社と監査役設置会社に分けて計算すると、反対率はそれぞれ5.1%、4.1%で大きな違いはない。次に取締役数が20名を超す会社だけを取り出すと、社長に対する反対率は7.2%と高い。また、社外取締役を設置していない会社についても社長の反対率は6.4%と高かった。
次に、株主資本利益率(ROE)との関係をみると、3期平均ROEが10%以上の場合、社長の反対率は1.8%。逆に3期平均ROEがマイナスの会社では6.4%と高い。さらに、3期連続赤字の会社になると平均反対率は11.3%とはねあがる。
 さらに、重要な法令違反や企業不祥事が報告された会社についてみると、社長の選任に対する反対率は8.5%と、これまたかなり高かった。
 以上をまとめると、社長の反対率が高いケースでは、①取締役会の構成(社外取締役が不在あるいは不十分)、②業績基準、③企業不祥事の3点が影響していると考えられる。②について言えば、取締役選任の基準のひとつとして業績基準を設けている機関投資家が多い。「3期連続でROE基準を下回ると代表取締役選任に反対」、「独立性のある社外取締役が不在で、かつ業績基準をクリアーしなかった場合社内取締役候補全員に反対」など基準の立て方はいろいろであるが、共通しているのはROEが使われることが多いという点である。
 冒頭述べたように社内取締役で10%以上の反対を受けた候補が昨年に比べ増えたのも、業績が影響している可能性がある。機関投資家の議決権行使の基準は各社工夫を凝らしているようだが、外からみると分かりにくい。その点、「業績が悪いから社長の選任に反対する」というROE基準はすっきりしている。企業経営はROEで全て決まるほど単純でなものではないという面はあるだろうが、投資家が期待するのはシンプルに利益の拡大だ。結果が出なかったら責任者を支持しない。このルールは企業経営者でも政治家でもあるいはスポーツの監督でも同じことだ。ROE基準は大いに結構なことではないか。

 (注)ここでいう反対率は(反対票+棄権票)÷議決権行使個数です。各社の臨時報告書による開示情報から集計しましたが、議決権行使個数は当社による推計値を用いたため、反対率も当社の推計値です。

(チッピー)