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2012年5月 7日 (月)

3年先が読めますか?

Ir_8s 3月決算企業の決算発表がピークを迎えている。昨年度の日本企業は東北大震災やタイの洪水、さらには欧州の財政危機に歴史的な円高と相次ぐ困難に見舞われたが、今年度はそうした影響を克服して増益に転じる企業が増えている。決算発表を機に新たな中期経営計画を打ち出す企業も多いと思われる。
中期経営計画、いわゆる中計の公表は自主開示であり、出すも出さないも企業の考え方次第ではあるが、何らかの中期目標を掲げている上場企業は多い。それでは、中計の公表は、海外でも一般的に行われているのかというと、決してそんなことはない。
2年ほど前に、欧米企業を中心に海外の有力企業30社について中計あるいは中期的な業績目標値に相当するものをホームページ上で開示しているかどうかを調べたことがある。その結果からいうと、調査した30社のうち15社は中期的な目標値を開示してはいなかった。今期の業績見通しという点では海外企業もガイドラインという名前の会社予想を公表しているが、そうした短期的な予想はここではカウントしていない。
将来の目標値を開示している15社のうち、将来の特定の期間における事業計画と最終年度までの目標値を開示している会社、すなわち日本の中計に近い情報開示を行っている会社は7社程度にすぎない。
興味深いのは目標値を設定してはいても、達成期限を設けていない会社がいくつかあることである。代表的な例がドイツの化学大手BASFである。同社は資本費用控除後の営業利益(EBIT after Cost of Capital)を目標値に掲げ、この数字を最大化することを目指している。資本コストを上回る利益が株式価値の源泉である、という経済的利益の考え方に基づいた目標設定と思われるが、「いつまでに」という達成期限は設けていない。いわば、常に資本コストを上回る利益を上げ、それを最大化するよう努力しますというメッセージである。恒常的な目標だけに、単年度で利益が資本コストを下回ることになっても、それが問題となることもない。実際、2009年の数値は赤字だった。
また、米国のプロクター&ギャンブルは売上高成長率(買収、事業売却等による影響を除く内部成長率)で4~6%、1株利益の成長率で年率10%といった目標を掲げているが、こちらも「いつまでに」という年限を設けてはいない。こうした目標設定の方法を、恒常的な目標水準を示すという意味で「ベンチマーク型」と呼ぼう。
これに対して、日本企業の中計で多いのは、3年間(あるいは5年間等)の年限を設けて、これこれの事業を拡大し、これこれの経営改革を進めて、○年までに売上○億円、営業利益○億円、ROE○%以上を目指すといった形である。いわば「アクションプラン型」の中計だ。
こういう目標設定だと投資家の関心は短期的な成果に傾きがちである。中計の1年目が過ぎれば、決算発表時に早くも中計2年目に当たる来期予想が公表される。2年目の予想が出れば3年目の目標と見比べて、目標達成が可能かどうかという点に興味が向いてしまう。
では期間を長くしたらいいかというと、そうでもない。あまり先の目標を出されても、判断に困る。10年間の長期ビジョンという形の経営戦略を掲げている会社もある。会社のありたい姿、目指す方向を示すという点で貴重な情報だと思うが、10年先の目標利益を信じて株を買う投資家はいない。
そもそも、企業は3年先の自社の業績をどの程度の確度で読めるものなのだろうか。事業環境が不連続に変化するのは過去に限った話ではない。これからも想定外の環境変化は必ず起こる。そうであれば、3年後の目標値にどれほどの意味があるのだろうか。
各企業の事業特性や置かれた環境によって、3年なら3年先まで読める会社もあればそうでない会社もあるだろう。読めると思えば目標値を出せばいいし、そうでなければ無理して目標値を出す必要はないと思う。中計を公表していない優良会社はいくらでもあるし、中計を出さないと投資家が買わないという話は聞いたことはない。企業の置かれた立場はそれぞれである。辿ってきた歴史も違うし、事業サイクルの長短も様々だ。短期間で「大化け」する企業もあれば時間をかけてじっくりと力をつけていく企業もある。
中期目標を出すことでアナリストは予想を立て易くなるし、投資家にとって参考になるのは確かである。しかし、数字より重要なのは、どの事業をどの分野でどうやって伸ばしていくのか、その場合のリスクは何なのか、といった定性的な話であり、この部分がきっちり説明できていれば、3年後の数字などなくても構わない。判で押したようにみんながみんな○年後にROE○%とうたう必要はないと思う。
目標設定のあり方について悩んでいる上場企業は多いのではないか。3年中計でも1年ごとに目標値を見直す、いわゆるローリングプランを採用している会社もある。あるいは、単年度の目標利益ではなく、向こう3年間の合計利益を目標として出す会社もある。過去3年間の累積実績と比較することで、中期的に会社がどの程度収益力を底上げできるかを示すという意味で、こうした目標設定も「あり」かもしれない。
「ベンチマーク型」目標を掲げている日本の会社はゼロではないかもしれないが、あったとしてもごく少数であろう(実例をご存じの方がいらっしゃったら教えていただければ幸いです)。上場企業であれば最低限自社の資本コストを上回る利益を上げてほしいというのは、多くの投資家が期待するところである。「当社は常に資本コストを上回る利益は確保します。ただし、いつまでにいくらの利益を出す、というコミットはいたしません」という目標設定の仕方にも一考の余地があるのではないだろうか。

(チッピー)

2012年4月16日 (月)

リーダーと企業価値

Ir_1s天体ブームのようです。5月21日は金環食ですが、本州でみられるのは1839年以来ということで、次回は生きているうちには(自分は)見られないと言われるといやがうえにも関心は高まってきます。また、金環食とは直接関係ありませんが、プラネタリウムが人気だそうで、子供のころに学校行事の一環で行った記憶がありますが、今のプラネタリウムはそのころのものとは全く別物で、実に精緻でリアルな天体ショーが楽しめるということで、一度行ってみたいと思っています。
さて、太古から人間と星とは深いつながりがありますが、そもそも宇宙はどのようにして誕生したかとか、宇宙にはどのくらいの星があるのだとか、宇宙の大きさはどのぐらいだとかは、関心は尽きないところですが、そうしたことを考えて答えを導き出す人には畏敬の念を持ちます。凡人の自分には想像もできないことですが、このような天才が人類を新たなステージに引き上げてきたのだと思います。
ナノの世界と広大な宇宙の世界とは異質なもののように思えますが、宇宙を知るには宇宙が何でできているのかを知らねばならず、そのためには素粒子を解明する必要があるそうです。2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏は、小林誠氏と共同で1972年に記した「CP対称性の破れ」についての論文(自分には全く理解できない)が受賞の対象でしたが、実に36年前の業績に対しての評価ということです。この理論が2002年の加速器の実験により証明され、その6年後に受賞されたということですが、同氏は比較的早い受賞だったとの印象をお持ちだそうです。世の中の変化は非常に早くなっていますが、物事の真理を解明するにはまだまだ時間がかかるということでしょう。

企業においても、天才達が創造をリードしています。まず真っ先に頭に浮かぶのはアップルのスティーブ・ジョブズ氏です。倒産寸前だったアップル社を立て直し、今や時価総額で約50兆円の世界最大規模の企業にまで成長させた手腕はまさに天才ならではと感じます。最近ではフェイスブックの上場が話題となっていますが、これは若干27歳のマーク・ザッカーバーグ氏が短期間に築いたもので、これまた天才ならではの業績です。
投資家という視点からは、このような偉大な個人が築いた企業に投資するには、その個人がその企業を率いていればこそ価値のあるものであり、最大のリスクはその個人に不測の事態が起きることです。仮にそうした事態が起きても安心して任せられる後継者がいるかどうか。アップルはこの問題をクリアしたようです。
日本においても、極めて優秀なリーダーの力で成長を続けている企業がいくつもありますが、優秀な企業が将来においても優秀な企業であり続けるには、常に優秀なリーダーを作り続けなければならないはずです。昨今、主に年金投資家が長期的視点に立脚した投資を志向し始めたようですが、その際に最も重要なチェック項目は、リーダーの後継者が育っているかという点であると思います(あまり論点にはなっていないように感じますが)。GEにおけるリーダー育成のためのGE企業内のビジネススクールの存在は有名ですが、こうしたリーダー層の厚さがGEに対する投資家の信頼度の高さに繋がっているのではないでしょうか。投資家の近視眼的なスタンスがよく批判の対象になりますが、企業側も長期的スタンスに立った人材育成に再び力を注ぐ時期ではないかと思います。
今は主に社外取締役の存在の有無がコーポレート・ガバナンスの中心課題となっているように見受けられますが、社外取締役の存在というのは、機関投資家にとっては、主に経営者が暴走した時に辞めさせることのできる保険としての機能であって、経営の質の維持や向上が主眼なのではありません(と理解しております)。投資家にとっても、投資価値という点では、リーダーの養成ということがより重要な課題になると思いますし、リーダーの育成が大事という点では企業側も投資家側も異論はないはずです。社外取締役の問題には早い時期に決着をつけて本質的な活動に注力できるようになってほしいと願っています。

(傍目八目)

2012年4月 2日 (月)

不都合な真実

Ir_10sアメリカの元副大統領、アル・ゴアが世界中で行なった環境問題に関するスライド講演を基に制作された、2006年のドキュメンタリー映画である。
地球温暖化の影響と思われる事例を、巧みなプレゼンテーションにより映像や数値と共に列挙し、警笛を鳴らしていく。北極の氷は溶けて消滅し、巨大ハリケーンや竜巻・台風による自然災害は多発する…。そしてこうした現象に対し、我々が日々の暮らしの中で小さな努力を重ねていくことで、地球を変えていくことができる、と訴える。
内容に関しては、イギリスの高等裁判所が「9ヶ所の部分で科学的根拠が乏しい」と注意を促す判決を出し、事実誤認やデータの誇大化、といった指摘があるなど、様々な議論がある。また、接戦の末ブッシュ氏に敗れた2000年の大統領選挙の一件なども含め、ゴア氏の政治的バックグラウンドや生い立ちなどに触れる部分も多く、彼のプロパガンダに過ぎず政治色が濃すぎる、という声があるのにも頷ける。(見終わった後で、テキサス出身のブッシュが大統領となり京都議定書からも離脱したという事実を考え、「もしゴアが大統領になっていたら」と思わず想像してしまったのは、「プロパガンダ」に乗せられた証拠か)
しかしながら、そうした声がある一方で映画はアカデミー賞を受賞し、ゴア氏がノーベル平和賞を受賞したきっかけにもなった。世界中の人々の目を「不都合な真実」に向けさせたという点においては、ある種の社会現象ともなったこの映画は非常に意味のあるものだったと言えるのではないか。イギリスの裁判所が言うように、科学的根拠に乏しかったとしても、地球環境問題に対する意識を喚起する上では非常に優れたものだったのである。

それから5年余り。日本においても、「不都合な真実」に目を向けさせられる事件が、多く発覚している。原発、オリンパス、大王製紙、AIJ…。
アメリカにおいては、政治家たちが目を背けていた地球温暖化による影響が、ゴア氏により明らかになった。これはある種の「内部告発」である。日本で起きたこれらの事件も、多くが「内部告発」によって表沙汰になった。そして、こうした事が起こるたびに、二度と同じことが起こらないよう、関係者が知恵を絞り新たな規制や制限が加えられ、その影響は、広範に及ぶ。ある一部の人達の行いによって、大多数の良識のある人達による活動が制限されることになるのである。(映画「不都合な真実」が地球環境問題に対する意識を喚起したのと同様、これらの事件はコーポレート・ガバナンスや年金等の問題に対し人々の意識を喚起するという意味においては、一つのきっかけにはなったのかもしれないが、こちらはそれで片付けられるような単純な問題ではない。)
真実を「隠す」人達は、最後まで隠し通せる、或いは、隠し通さなくてはならない、といった外から見れば根拠のない自信や理由でそうした行動に出るのだろうが、隠し通すことなど不可能であるし、途中で発覚したときの影響は大きすぎる。適時開示規則ではないが、発生してしまったものは「速やかに公表」するべきなのである。

「不都合な真実」の中で、ゴア氏は世界中を回って講演を行なった。日本では、消費税増税に向け、閣僚が国内を行脚して、国民に理解を求めた、ということがあった。たとえ「不都合な真実」であったとしてもそれを速やかに且つ正確に伝え、理解を求めるといった努力がこれまで十分ではなかった、ということにようやく気づいたということではないか。これは政治に限らず、どこの世界でも同じである。

(ぴろこん)

2012年3月19日 (月)

ジェノヴァとヴェネツィア

Ir_7s 昨年の夏、イタリアのジェノヴァを訪れた。イタリア最大の貿易港のある町ではあるが、建築物の豪華さ、美術館の収蔵品の規模やレベルなどは期待していたほどではなく、肩透かしをくらったような気がした。ヴェネツィアのような絢爛豪華なドゥカーレ宮殿や教会があり、その中にはため息をつくような絵画がたくさんあるのかと思って行ったのだが、ヴェネツィアの街が持つ華麗さや成熟した文化の香りはあまり感じられなかった。ヴェネツィアと百年以上もの間地中海の覇権を争っていたのに、である。その後、時代は下って十六世紀、ジェノヴァに本拠地を置く聖(サン)ジョルジョ銀行は、スペインがメキシコから運んでくる銀の流通を一手に担っていたが、その建物も、外壁のフレスコ画が他の建物との違いを見せていただけで、つるんとした地味な建物だった。

ジェノヴァの船乗りの能力は高かったという。ヴェネツィア人でさえ、地中海世界随一と認めていたと言われる。黒海貿易を独占し、多くの富が流れ込んできたはずである。しかし、国内では教皇派と皇帝派に別れて抗争が絶えず、富を蓄積することができなかったようだ。そのため、ヴェネツィアがヴェネツィア派と呼ばれる芸術家たちを生んだのに対し、ジェノヴァは芸術家を育む余裕はなかったのだろう。また、ジェノヴァ人の性格もあったのかも知れない。ヴェネツィア派は生まなかったが、コロンブスのような世界的な冒険家は生んだのだから。

翻って日本。失われた10年が失われた20年になった。この間日本はその富を使って、後世に残すような文化を生むことができただろうか。日経平均は1989年12月に3万8,915円までつけたが、その後下降線をたどり、少し持ち直したところでリーマン・ショックに見舞われ、2009年3月には7,054円まで落ち込んだ。現在は1万円前後まで回復しているが、ピーク時の1/4のレベルである。企業も機関投資家も個人も多くの富を失った。

そういえば、地中海貿易で潤っていた頃のヴェネツィアを描いた絵には、ターバンを巻いたアラブ人もよく描かれている。当時のヴェネツィアには東方のアラブ人も多く見かけられたという。繁栄しているところでは、人的交流も文化交流も盛んだという証だ。現在、政府が進めようとしている、日本企業のコーポレート・ガバナンス改革も、外国人の投資を呼び込もうという狙いがある。外国人に買ってもらわなければ、日本の株価は上がらないのだ。

日本の企業の方々の努力が正当に株価に反映され、企業も投資家も潤い、文化にお金を使うことができ、後世に残せるようなものを生むことができたら、と願う。そして、コロンブスのように世界に出て行きたい人は出て行ってのびのびと力をためし、それによって日本がまた潤うような社会になれば理想的である。

(雨やどり)

2012年3月 5日 (月)

読み・書き・そろばん

Ir_3s 先週の日経新聞に大学生に対する数学力テストの結果に関する記事が出ていたので、原典にあたってみた。ネタ元は社団法人「日本数学会」(東京)が大学生約6千人を対象に行った初の数学力テストの結果をまとめた報告書であり、以下に出題された問題の1つとその正答率を紹介する。

◆問題
 ある中学校の三年生の生徒100 人の身長を測り、その平均を計算すると163.5cm になりました。この結果から確実に正しいと言えることには○を、そうでないものには×を、左側の空欄に記入してください。
(1) 身長が163.5 cm よりも高い生徒と低い生徒は、それぞれ50 人ずついる。
(2) 100 人の生徒全員の身長をたすと、163.5 cm × 100 = 16350 cm になる。
(3) 身長を10 cm ごとに「130 cm 以上で140 cm 未満の生徒」「140 cm 以上で150 cm 未満の生徒」・・・というように区分けすると、「160 cm 以上で170 cm 未満の生徒」が最も多い。

◆偏差値群別の正答率

20120305_2

*偏差値:国S、国公A、国公Bの順に高い。私S、私A、私B、私Cの順に高い
(出所)日本数学会「大学生数学基本調査」に関する報告書(概要版)

(1)から(3)の3問とも正解した場合の正答率は全体平均で76.0%ということだ。実に4分の1が正解できていない。にわかに信じられない結果である。大学生にもかかわらず、このような基本的な問題がわからないというのはどういうことなのだろうか。暗然たる気持ちになる。
 この数学力テストでは「放物線の特徴」を問う問題もあるが、これに正解できなくても、少なくとも日常生活を営むうえで困らず、ビジネス活動を行ううえでもほとんどの人がまぁ支障ないであろう。しかし、この「平均」を理解できなければ、日常生活でも時に困ってしまうのではないか。上記の(1)の問題を間違えた大学生は「このダイエット食品を100人に1日100g食べてもらうと、1ヶ月後には平均で3Kg痩せました。」という広告を見た場合、3kg超痩せた人と3kg未満痩せた人が同数いると理解してしまうのだろうか。例えば、1kg太ってしまった人が80人、19kg痩せた人が20人の場合でも、「平均で3kg痩せた」という計算結果になる。この商品は購入したほうがいいのだろうか。これを確率論とすれば期待値は-3kgとなり購入してもよさそうだが、-19kgは何かの副作用だろうと思ってしまう小職は買わない。そう言えば、毎年総務省が世帯の平均貯蓄額を発表するが、この金額はやけに高い水準になっている。一部のお金持ちが平均を引き上げているためで、平均値だけでなく中央値や最頻値もみるべきなのだ。
 平均の話を引っ張り過ぎたが、言いたいことは、昨今の大学生の学力低下を何とかすべし、である。一部の大学では新入生に対し正規のカリキュラム以外の補講で高校数学を教えているようだが、これは対処療法に過ぎない。小職は学生時代のアルバイトで小・中学生の塾の講師や家庭教師を務めたことがある。小学生の時に算数の初歩でつまずくと、なかなかリカバリーは難しいと感じた。この時代に算数の基礎を徹底して叩き込むべきである。算数だけではだめだ。国語も大切だ。国語のできない生徒は算数の問題を読み取れない。
 日本が世界に誇る寺子屋では「読み・書き・そろばん」を教えた。これが東洋の奇跡と諸外国をして言わしめた日本の近代化の礎となったのである。今一度、「読み・書き・そろばん」=「基礎学力」の習得を徹底させる必要がある。
 橋下大阪市長が小中学生の留年制度導入の検討を教育委員会に指示したが、議論は大いに結構。小職としては、留年制度よりも同一学年内での習熟度別クラス編成による対応がよいのではないかと思う。あわせて、戦前の飛び級制度復活もおもしろいと思う。全体の底上げを図る一方で、国を引っ張るエリート養成もできるのではないか。

(竹馬と桃)

2012年2月20日 (月)

Think Steve Jobs

Ir_4s スティーブ・ジョブズが亡くなってから4ヶ月が経った。音楽好きの私にとってiPodとiTunesは、衝撃的な商品だった。中学生の頃、毎朝テープレコーダーで音楽を流し、頭にメロディーを記憶して登校していた。ウォークマンが出たとき、外を歩きながら耳元に音楽があることに感動した。媒体は、カセットテープ、CD、ミニディスクと変わっていったが、いつも音楽がそばにあることで、人生が楽しくなった。曲のストックがたまってくると、そのときの気分、季節、天気、場所などで聞きたい曲を選びたくなり、その都度媒体を入れ替えるのが面倒になっていた。そこへ大容量でポケットに収まるiPodが出た。さらに、長年求めていた曲の視聴とバラ売りも可能という。音楽を聴くことに関して、自分の欲求をすべて満たしてくれる商品だった。そこには使う側と一体になった作り手の意志が感じられた。

 iPodとiTunesがどういう経緯で開発されたのかに興味を持ち、スティーブ・ジョブズの自伝を読んだ。自分が一番欲しいものへのすさまじい情熱、完璧な製品を求める妥協を許さない態度、怒鳴られながらもついていく部下とそのサポート、技術の進歩、等様々な要素が重なってできた奇跡のような商品だと思えた。

 その後、iPhone、iPadを商品化し、自らの会社をPCメーカーからモバイル機器の会社と定義しなおしていく。そこには、自社製品の“共食い”を恐れず、自分の描く理想に向かって突き進む“アニマルスピリット”が感じられる。企業は環境変化に対応することを求められるが、アップルは、さらに進んで周りの環境を変化させているところが際立っている。有名となった彼の語録のひとつに「欲しいものを見せてあげなければ、みんな、それが欲しいなんてわからないんだ。だから僕は市場調査に頼らない。歴史のページにまだ書かれていないことを読み取るのが僕らの仕事なんだ。」とある。イノベーションを起こすためには、凝り固まった常識から解放されることが必要なのだろう。

 数年前、シリコンバレーにアップルのIRオフィサーを訪ねた時、彼女が、「当社はトップがすべてで、IRのスタッフも少なく特に変わったことはしていない。自分たちのIRはリアクティブ、ブランドネームがあるのでプロアクティブに動く必要がない。」と話していた。スティーブの製品発表のプレゼンがIRとしてのメッセージなのだろう。経営自体がIR、彼の好きな“シンプル”そのものである。

 “Think Different”(アイデア元は広告代理店)を実践した経営者、いや人間として個の独自性を強烈に主張し、その姿勢を貫き、結果、命を燃焼し尽くした、何とも壮絶な人生であった。彼の軌跡を振り返ると、イノベーションとは何か、企業経営とは何か、商品開発とは何か、デザインと機能の関係とは何か、個性の発揮とは何か、色々と考えさせられる。今までとはまた違う想いでiPodを使い、これを生み出した奇跡に感謝している。

(投資道)

(参考文献)
「スティーブ・ジョブズ Ⅱ」ウォルター・アイザックソン 井口耕二訳 講談社
(参考映像)
Macworld San Francisco 2007 Keynote Address

2012年2月 6日 (月)

バリュー株効果

Ir_3s  2011年の日本の株式市場(TOPIX)は、約19%の下落となりました。東日本大震災や原発問題、タイの洪水など日本固有のネガティブな事象もありましたが、欧州債務問題や米国の景気減速懸念を背景とした8月・9月の外国人投資家の売り(合計約1.8兆円)が株価下落の主な要因と言えるでしょう。一方、このような先行き不透明な環境下においても、株価下落に伴い日本株の割安性がさらに高まったことで、いわゆるバリュー投資家‐First Eagle Investment Management(米ニューヨーク)、Tradewinds Global Investors(米ロサンゼルス)、Harris Associates(米シカゴ)など‐は日本株を買い進めていることが指摘されています(日本経済新聞2011年12月7日)。

 バリュー投資とは一般的に、本来の企業価値と比較して株価が割安に放置されている企業を投資対象として、割安性が解消されるまで継続的に保有することによって高いリターンを獲得することを目指す運用スタイルと言えますが、バリュー投資は相対的に高いリターンが得られるのでしょうか。この点に関して、現実の株式市場においては以前から、PBRの低い銘柄群(バリュー株)のリターンが相対的に高くなる現象が観察されており、「バリュー株効果」として広く知られています。これは、古典的なポートフォリオ理論であるCAPM(資本資産価格モデル)では説明できないアノマリー(例外的・異常な現象)であることから、その原因を解明する試みがなされてきました。Fama and French(1993)は、CAPMに代わるモデル(Fama‐Frenchの3ファクターモデルとして有名)を考案し、バリュー株効果の要因はリスクに対するプレミアム、つまり、バリュー株は相対的にリスクが高いため、リスク負担に応じたリターンが得られるのだと解釈しました。

 これに対して、バリュー株効果の要因はリスク・プレミアムではなく、投資家側の反応によるものだという考え方も提示されています。Lakonishok, Shleifer and Vishny(1994)は、投資家の過剰反応を反映したものではないかと指摘しました。すなわち、バリュー株は業績不振であることが多く、投資家が過度にその企業の将来を悲観しているため、業績予想のサプライズがプラス方向に大きく出やすい。そうした過度の悲観による低株価とその後の株価修正の結果、バリュー株のリターンが高くなると解釈しています。(ちなみに、3氏はそれぞれの頭文字をとった運用会社LSV Asset Managementを設立したことでも知られています。)一方、Dreman and Berry(1995)は、投資家の非対称的な反応が要因ではないかと指摘しました。すなわち、バリュー株は業績不振を前提に株価が形成されているため、ネガティブ・サプライズには小さな反応しか示さない一方で、ポジティブ・サプライズには大きな反応を示す。そのような非対称な反応の結果、バリュー株のリターンが高くなると解釈しています。このようにバリュー株効果の要因についてはいくつか解釈の余地がありますが、バリュー株効果の存在自体は直近の日本株においても概ね確認されています。

 現在の日本株のPBRを考慮すると、バリュー投資家にとっては非常に魅力的な水準であり、さらなる買い増しも期待できるのではないかと思われます。ただ一方で、ほとんどのバリュー投資家は、割安性が将来にわたっても解消されないリスク(いわゆるバリュートラップに陥ってしまうリスク)を認識し、たとえ割安であってもその割安性が解消されない可能性のある企業‐具体的には、経営陣がIR活動に積極的でない企業やコーポレート・ガバナンスに問題のある企業‐の株式は投資対象から除いてしまう可能性が高いのではないかと推察されます。したがって、バリュー投資家からの投資を引き出すためには、継続的なIR活動やガバナンスへの配慮が欠かせないと言えるでしょう。

〔参考文献〕
Dreman D. and M. Berry(1995)“Overreaction, Underreaction, and the Low-P/E Effect”
Fama F. and K. French(1993)“Common risk factors in the returns on stocks and bonds”
Lakonishok, J., A. Shleifer and R. Vishny(1994)“Contrarian investment, extrapolation, and risk”

(ひよこまめ)

2012年1月23日 (月)

アソビをせんとや生まれけむ

Ir_2s 今年の大河ドラマ「平清盛」では、主人公を、古代王朝国家から中世武家政権へ向かう大きな時代転換のパイオニアと位置づけています。唯物史観的な視点からは、“当時は、農業生産性の向上と、物々交換経済から貨幣経済への移行という経済構造の転換期に当り、こうした劇的な下部構造の変化が、武家階層への政治権力の重心シフトを促した。この変化にいち早く対応し、先駆的な役割を果たした平氏が、強力な経済力を身につけて、政権の中枢に参画することになった”といった整理ができると思います。

 「経営者・平清盛の失敗」では、清盛は、日宋貿易の更なる拡大と収益力の向上を目指し、「音戸の瀬戸」開削や人工港築造等の積極的な経営を推し進めたが、彼の最晩年からは、世界的な寒冷気象や「銭の病」(同書では、輸入通貨である宋銭は需給調節ができなかったために発生したデフレとハイパーインフレを指す、という立場)といった不幸な出来事が続いて、平氏は短期間で滅亡。その後の、鎌倉から江戸時代に至る700年弱の日本は、織豊政権等の短期的な例外を除いて、基本的には「土地本位(一所懸命)&閉鎖的(極端な場合は鎖国)」という、武家政権下の社会・経済モデルが続くことになった、という考察をしています。

 さらに、もし平氏政権がその後も続いていたら、日本は国際交流にもっと積極的な国になっていただろうから、東アジアに貿易国家として台頭し、日本人はもっと外国語が話せて、土地神話や持ち家信仰もこれほど根強くならなかったのではないか、というおもしろい歴史のifを展開しています。私も大いに共感するところですが、もう一つ、もしそうなっていたら、日本人の儒教に対する理解、ひいては、現在に至るまでの、日本人の人間・人生観や社会・政治に対する考え方は全く異なるものになっていたのではないか、というのが私のifです。

 「儒教」は、5世紀頃には日本に伝来していたそうですが、①江戸時代以前は基本的に僧侶を中心とする少数の知識人の教養にとどまったこと、②江戸時代以降に、統治理念や道徳教学として日本社会に広く浸透する過程では、都合の良い部分だけを取り出し、理解・納得できる内容に換骨奪胎するといった、日本人が得意な外来文化・思想の受容パターンを免れなかったこと、③鎖国により事後的な比較検証が十分になされなかったこと等により、日本の儒教は、本来の主旨を残しながらも、かなり特殊なかたちで理解されてきたのが実体のようです。儒教が日本の経済・社会に与えた影響については、既に多く語られており、将来のためにその重要性を見直すべきとの意見も、特にここ数年は多く聞かれるようになっています。この点について、私が理解している範囲での結論めいたことを言えば、“「日本的な儒教」は、明治維新からバブル崩壊までの日本の発展に重要な役割を果たした。しかし、「現在の日本と世界が抱える問題」に対処するには、変質を受ける以前の「儒教本来の考え方」のほうが有効ではないか”というものです。

 最初に、歴史的・日本的な変質を受ける以前の「儒教本来の考え方」のポイントからあげると、第一は、多くの宗教とは異なり、最大の関心が社会的人間としての生き方にあり、人間の本質に対する信頼と、努力による成長を肯定的に考える点です。仏教や老荘思想が無知・無欲による個人的な救いに主眼を置くのに対し、儒教は、政治と道徳を主要な問題として真正面から捉え、人間の「欲望」の存在を認めたうえで、それでもなお、人間は他者との間で欲望を調和させる道徳的本質を先天的に持つと考える、オプティミスティックな人間観が正統を占めています。

 二番目の特徴として、「儒家的合理主義」をあげることができます。「知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す。これ知るなり」の言葉に示されるように、理性で確認できないものを直ちに否定するのではなく、また独りよがりに理論付けするのでもなく、知識や経験を積んではっきりしてきた段階で結論を出すという懐の深い、良い意味での曖昧さを持った合理主義です。これはもちろん、問題を丸ごと先送りする状況追認的な反応や、日和見的な折衷主義といった、無責任な態度を意味するものではありません。対立するものが、その対抗性を失わないで「競い合い」ながら、しかも相手を容認して譲るべきは譲るというあり方、個を貫きながら全体の調和の理想を追求する姿勢、絶えず変動する情勢のなかで広く情報を集めて「中」を求める態度、そうした複合的なあり方のなかに「儒教的合理主義」の神髄はあるようです。

 この点については、私自身がどちらかと言えばシロクロを早くつけたいタイプなので、必ずしも充分に理解・納得しているわけではないのですが、現代社会という大きなレベルで考えると、トライ&エラーのやり方を採用して誤った場合の悪影響が、文明の発達によって極端に大きくなっているという認識に立ったうえで、問題によっては、特に環境や国際紛争のような一義的に判断しにくい重大な問題の場合は、時間をある程度犠牲にしても、儒教的合理主義による漸進的アプローチで臨むことの必要性が高まっているように思われます。

 三番目の特徴は「修己治人」、一人の人間としての道徳的修養と、為政者としての民衆の統治とを、不可分なものとして考える点です。孟子は、当時の状況を反映して、社会が「君・臣・民」の三者で構成されることを前提にしていますが、その主体間の「君臣関係」については、民衆のレベルまで含めて「双務的な関係」としてとらえており、被治者を大事にしない(=徳の無い)為政者は交代させるべきだ、と考えている点が注目されます。もっとも、その後の漢代以降の儒教は、政治権力の集中が進む過程で、上下関係を強調し、片務的な性格が強まる方向に変質しており、この変質した後の内容が「儒教の封建倫理」として、現在ややもすると批判的にとらえられている、というのが私の理解です。

 この「儒教の封建倫理」が強化されてきた期間は、洋の東西を問わず、主要な生産手段がヒトの労働力に限られるなかで、できるだけ大きな成果(戦争での勝利、生産物の増大)をあげるために、「ヒト・モノ・カネ・情報」といった資源を集中させて効率的に管理することが、競争力の源泉でした。そういった状況の下では、組織内部を安定させることが何より必要という意味で、「血統による正統性」や「儒教的封建制」にもそれなりの経済的合理性があったと考えられます。しかし、そうした人類の弛まざる努力の成果として「単位当り生産性」が劇的に向上したこと、需要の中身が大きく変化したこと等により、近年は、資源を極端に集中させ、それを大規模な階層組織により管理・運営することが、必ずしも合理的とは言えない状況や組織が増えています。

 こうした変化を反映すれば「儒教的封建制」の内容も当然見直されるべきでしょう。その点で、「君、君たらずとも、臣、臣たれ」を誤りとする見方にはほとんど異論は無いと思いますが、「個人の欲求を全体とのバランスのなかで考えることを否定的にみる」考え方については、私は反対です。民主主義という政治理念のもとでは既に、また経済的な意味でも、一般大衆が「被治者であり、かつ統治者でもある」といった状況にほぼ近くなっているのですから、「力を持つものはそれだけ大きな道徳的義務を負うべき」という「儒教本来の考え方」にそくせば、個人が自発的に全体に配慮する意識は、むしろ強くなってしかるべきだと考えるからです。

 以上のような「儒教本来の考え方」と比較した場合の「日本的な儒教」の最大の特徴は、いつわりのない真心を意味する「誠」の強調にあり、江戸時代から敗戦までの日本の君臣関係はどちらかと言えば片務的な性格が強かったと言われています。また、日本人の特徴として、どちらかと言えば、ものごとを単純明快にするほうを好み、気が早くて「良い」となったら突っ走る傾向がある、概して新しいものを良いと考えがち、論理よりも情、理性よりも純粋さに重きをおく傾向がある、といった意見には、私自身を省みても認めるべき点が多いように思われます。そうした日本人の精神的特性が、「日本的な儒教」により助長された結果として、「義理」と「人情」の板ばさみの果ての自己犠牲や、“ただ至誠のあるところを示して批判を後世にまつ”急進的な維新の志士のような、どちらかと言えば悲壮感を伴った行動に対して日本人が美意識を感じるようになったのかもしれません。

 そうした視点から最近気になる動きが、政治家に対する批判報道があい変わらず多いことに加え、官僚批判の出版が増えていることです。自浄作用として積極的に評価することもできますが、問題は、一般的な受け止め方が、もっぱら道徳的観点から批判することで溜飲を下げる、といった意識にとどまりがちな点です。そうした批判を展開する一方で、リーダーなのだから何とかしろと要求し、決定されればその内容にかかわらず唯々諾々と従うといった反応は、まさに、「修己治人」の精神が、もっぱら被治者の立場からみた歪んだかたちで、日本人の心理に根付いていることの現われではないでしょうか。個人の尊厳を守るには「国家」による保護が不可欠であること、それなりの機能を持った官僚機構がなければ中程度の「福祉国家」さえ実現できないことは、あらためて述べるまでもありません。リーダーを無責任に批判するのではなく、少なくとも役割を果たす覚悟を持っている人物や組織に対しては、むしろ積極的に協力するべきだと思います。

 最後に、「現在の日本と世界が抱える問題」についてですが、単純化すれば、「グローバリゼーションの限界を見据えたうえでの新しい資本主義のあり方」に関する意見の対立と不透明感、と言えるでしょう。グローバリゼーションとは、各国の資本主義体制を、米英型の「市場ベース型」に一元化しようとする、良く言えば福音的、悪く言えば原理主義的な考え方です。リーマン・ショック後は、「市場経済や資本主義そのものに均衡化や自己調整の力をみて、社会諸関係をすべて市場化していくことこそ正常な発展の道だ」とする新古典派経済学の考え方は、現実の人間社会(特に失業等のリスクに対する耐性が大幅に低下した現代社会)にそのまま適用するには無理が大きい、という考え方がコンセンサスとなりつつあります。「西欧的な意味での合理性はあっても、儒教的な意味での合理性は無い」ということに世界が気付き始めているのではないでしょうか。

 市場主義に代わる資本主義モデルのヒントとしては、「比較資本主義分析」の考え方が注目されます。これは、各国で異なる比較優位産業が生み出される背景の類型化を通じ、より望ましい資本主義のかたちを考察するもので、ポイントは、①各国の資本主義と、政治・労働・教育・社会保障・文化といった社会的な諸制度との間には補完的な関係がある、②これらの制度はいずれも国際的な共通化が困難なものであり、その違いこそが各国の「資本主義」を独特なものにしている、という考え方です。下図は2003年時点のモデルですが、「福祉(社会保障)」とは産業構造が転換する際に避けられない失業・転職のコストを誰が負うのか、「教育」とは就業者として必要な技能・能力の教育を誰が行うのか、と考えれば分かり易いと思います。

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 ここで日本が韓国とともに分類されている「アジア型」は、まさに「儒教資本主義」とも表現されてきたものです。明治維新からバブル崩壊までの近代化と奇跡の高成長は、「日本的な儒教」のなかにある、勤勉、誠実、商業道徳、自己や家庭より組織(会社)優先といった国民意識に裏付けられた、年功序列や終身雇用を特徴とする諸制度が、当時の日本を取り巻く環境に理想的に適合した成果と言えるでしょう。先人への非礼をご容赦いただいて、あえて皮肉な言い方をすれば、当時の日本人の国民性に支えられて、急速にそしてある意味で無節操に遂行された結果、という見方さえできるかもしれません。

 「比較資本市場分析」には、今後の日本がどのモデルになるという回答ではなく、企業や個人を取り巻く環境(諸制度)がどの方向に向かっているのか、そのなかで企業や個人が自己の目指す目的を実現するためには、何をどういった形で補い、また対応すれば良いのかを考えるためのロード・マップとしての役割を期待すべきでしょう。実際の各国の資本主義は、アメリカ型への一元的な収斂という単純な動きではなく、各国諸制度のハイブリッド化や新たな多様化・構造化が進みつつあるようです。またそうしたなかでも、モノからサービスへ、労働から情報・知識へ、物質中心から人間中心へといった、各国に共通する歴史的な底流が存在するように思われます。

 そうした問題意識から目をひいたのが日経新聞の「C世代賭ける」の連載です。抜粋すると、「ジェネレーションCはここ数年米国で使われた言葉だ。年齢は限定しないが基本的に若者。Computer, Connected, Community, Change, Create 等を意味する。… オープンでフラットな関係を好み、コンテンツを発信し、情報を共有し、政治や企業に透明性を求める。」と定義されています。あえて年齢を特定すれば、米国では1960~1974年生まれの「ジェネレーションX」に続く世代、日本では1971~1974年生まれの「団塊ジュニア」に続く「ポスト団塊ジュニア」以降の世代を指すようです。この「ポスト団塊ジュニア世代」の男性について、厚生労働省は2011年の『労働経済白書』で、「他の世代に比べて非正規雇用から抜け出せない人の割合が高く、この世代の若者に非正規雇用拡大のひずみが集中した」と分析しています。そういった意味で、日本のC世代とは、労働福祉を個別企業単位が中心となって支える「ミクロ・コーポラティズム」の枠組みを前提としない(=既得権益を失う恐れから解放された)最初の世代と言えるのかもしれません。

 「ミクロ・コーポラティズム」喪失の不安から解放された後の日本社会は、「坂の上の雲」を目指す高成長路線への回帰よりも、穏やかな成長の下で自分自身のなかに価値観を求める、良く言えば成熟した社会になるのではないでしょうか。そうであれば、子供(赤子)の純粋さや青年の気概よりも、大人の冷静な思考、すなわち、自己の存在意義を常に意識し、自己の立ち位置と進むべき方向を自分で意思決定し、周囲に主張すべきは主張し妥協すべきは妥協するという「儒教本来の考え方」が、個人・企業・国家といったあらゆるレベルで必要になってくると思います。IRの視点に置き換えれば、「企業理念」を通じて自社の存在意義(目標)をステークホルダーにしっかりと訴えていくこと、また、それを具体化する「中・長期計画」では環境の変化に応じて生産、経営等の体制をより適切なものへと柔軟に組み替えていくことが、真の意味で重要になってくると考えられます。

 “遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけむ 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそゆるがるれ”。「平清盛」でも使われたこの歌は、後白河法皇(昨年ブログで紹介した「熊野御幸」34回の最多記録保持者)が、当時流行していた今様を集成した「梁塵秘抄」に収録されており、末法思想を色濃く反映して法文歌(仏法を説いた歌)が多数を占める同歌集のなかでは、比較的めずらしいタイプの、子供の純真な愛らしさを歌ったものと言われています。

 動詞の「あそぶ」には、単なる「ヒマつぶし」や「もてあそぶ」の意味だけでなく、①命令・強制や義務からではなく自分のしたいことをして時間を過ごす(=play)、②学芸修行のために他郷へ行く(=study abroad)といった積極的な意味もあります。また、名詞の「あそび」は、③機械の部品と部品との間の余裕(=allowance)といった意味でも用いられます。私自身は、「アソビをせんとや生まれけむ」を、①日常業務と自分の関心との接点を探り極力創造的な姿勢で臨む、②情報の収集に努めることで自分の認識を常に検証する、③多くの意見を取り入れて拙速に結論付けないように心がける、といった意味にとらえたうえで、知行合一の充実した1年にしたいと思っています。

(トーマス)

2012年1月10日 (火)

アジアの投資家

Ir_8s 国際通貨基金(IMF)は、CPIF(Coordinated Portfolio Investment Survey)という名前で世界の対外証券投資のデータを集計している。同データベースによると、2009年末の世界の対外株式投資残高は13兆6700億ドルで、世界の取引所時価総額の27.4%を占めている。2001年から2009年にかけての対外株式投資残高の伸び率は2.63倍と、世界の株式時価総額の伸び率(1.87倍)を上回っており、クロスボーダーの株式投資が市場の成長を上回るペースで拡大してきたことがうかがえる。
 国別の投資残高の伸び率を比較すると、最も伸び率が高いのはノルウエーで、01年から09年までの8年間で8.5倍に拡大している。同国の政府年金基金による対外株式投資の増加が主な背景だ。ノルウエーに次いで伸び率が高いのが香港(5.3倍)、シンガポール(4.9倍)などアジアの金融センターである。
 対外株式投資残高に占める構成比の変化をみると、先進国の地位の低下が明らかである。全世界を100とした場合の主要先進国の構成比は、対外株式投資の受入国としてのシェアが01年から09年にかけて9.0ポイント低下し、資金の出し手=出資国としてのシェアも同期間に6.5ポイント低下している。代わって存在感を増しているのが途上国市場、とりわけアジア諸国である。
 アジア諸国の構成比は株式投資の受入国としてのシェアが6.2%から12.9%へと倍以上に増え、資金の出し手=出資国としてのシェアも3.7%から7.3%へ上昇している。09年末における香港からの対外株式投資残高は49.8億ドル、シンガポールが15.3億ドルで、両者を合せると日本の59.4億ドルを上回っている。アジア諸国は投資対象国としてだけではなく、株式投資の出資国としても無視できない存在になっている。
 日本株投資に関しては、欧米の機関投資家を中心に、アジア株の運用拠点を香港、シンガポールに集約し、東京の日本株運用拠点をそちらに集約させるという話をよく聞く。カネの集まるところにヒトやモノが集まるのは自然な流れである。また、日本株のリサーチ・チームをアジア株のリサーチ・チームに統合させるという動きも出ている。
 その一方、日本企業は海外事業展開を加速している。その主たるターゲットはアジア市場である。紙おむつの世界シェア10%を目標に掲げるユニ・チャームや豪州、アジアの飲料企業の買収を矢継ぎ早に進めるアサヒグループホールディングスなど、海外市場、とりわけアジア市場の拡大を成長の柱に位置付ける日本企業は多い。日本企業がアジアとの相互依存関係を強めれば強めるほど、投資家は、日本株を独立したマーケットとしてではなく、アジアマーケットの中の一銘柄として見るようになる。
 そうなると、日本企業もIRの中身を変えていく必要があるのではないか。拡大するアジアという文脈の中で自社の成長ストーリーをどう描くかという点と、中国や韓国のライバル企業に対する自社の競争優位を投資家にどう訴えるかが重要なポイントと考えられる。
 もうひとつの課題はアジアの機関投資家に対するIRアプローチの強化である。海外IRを実施している上場企業は多いが、訪問先は北米、欧州が中心であり、香港やシンガポールを訪問する企業はまだ多くはないようである。
 欧州の財政危機や中国経済の減速懸念などから世界的な株安連鎖がアジアの株式市場にも波及しているが、長い目で見ればアジアにおける資本蓄積が対外投資を拡大させることは間違いない。日本株の投資家としてアジアの重要性は今後ますます高まると予想される。
 欧米の機関投資家に比べればアジアの投資家の日本企業に対する理解度はまだ低いという話も聞くが、そうであればなおさら、アジアの機関投資家との関係構築に粘り強く取り組んでいく必要があると考える。

2011年12月19日 (月)

破壊の年

Ir_1s早いもので、今年最後のブログとなりました。色々な災いの起きた年となりましたが、今年を振り返ってみたいと思います。
まず、2011年年明け最初のブログを担当し、バイロン・ウィーン氏の2011年予想を紹介しましたので、まずは、今年の締めとして予想の結果を検証してみたいと思います。

バイロン・ウィーン氏の2011年予測(2011年のサプライズ)
1.失業保険の延長を伴うブッシュ減税の継続が米国の労働者の心理を好転させる。実質GDPが貿易と資本支出の改善に加えて小売売上げが強まることで2011年成長率が5%にまで高まる。失業率は9%を下回る。
→GDP成長率は予想の中央値が2.0%と大きく下回った。失業率は、11月末で8.6%と予想どおり。

2.連邦財政赤字と政府負債の拡大予想でついに債券市場が圧迫されてくる。外国人投資家の要求が厳しくなり米国債10年物の利回りが5%に到達し、社債との利回り差が縮小する。
→財政赤字と政府負債が巨額である状態には変わりはないが、赤字の比率は若干低下、10年債の利回りは、2.06%と各国の格下げが相次いだにも関わらず低下。

3.経済の勢いが復活したことに勇気付けられてS&P500は1500の過去高値にまで上昇する。値上がりは幅広いセクターに及ぶが通信と公益は出遅れる。利益の改善に伴い、バリュエーションが安くなり個人投資家が金融危機後初めて株式に戻ってくる。M&A活動が活発化し、市場はユーフォリアに近づく。下期には金利の上昇につれ株式は調整する。
→4月29日に1363の高値を付けた後にボックス圏の展開となった後、8月に急落。ユーフォリアを迎える前に失速。

4.インフレは引き続き無視してよい水準にとどまるが、世界中の投資家が資産をより実物資産へシフトさせることにより、金価格は1600ドルを突破する。大量のドル準備を持つ国々のSWFが大きな買い手となる。ヘッジファンドは価格上昇が鈍化し下落に転じると考えポジションを整理し、金属にはショートポジションも取る。しかし、金価格は上昇を続け、慌てて買戻しを行う。
→金価格は9月6日には1888ドルにまで上昇。新興国においてインフレは政治問題となり金融は引き締め気味に転じた。

5.インフレと過剰な成長を懸念し、中国が自国通貨を政治的道具として活用することを決定する。経済成長率を10%未満に抑え、消費者物価指数を4-5%の上昇に収めるために人民元の価値を積極的に管理する。この動きは、主要準備貨幣としてのドルの代替貨幣として人民元をバスケットに加える世界的な調整の前兆として捉えられる。
→第3四半期のGDP成長率は9.1%に鈍化し、消費者物価指数は7月には6.5%まで高まっていたものが11月には4.2%にまで低下した。元は対ドルで穏やかな上昇傾向を続けている。また、日本株投資においては「SSBT OD05」の存在感が高まっている。

6.新興国における生活水準の向上で、農産物への需要増が深刻化する。トウモロコシが8ドル、小麦が10ドル、大豆が16ドルに値上がりする。商品がより多くの機関投資家のポートフォリオに組み込まれるようになる。
→トウモロコシが5.9ドル、小麦が5.7ドル、大豆が11.1ドルと、2010年平均のそれぞれ4.3ドル、5.8ドル、10.5ドルから大きな変動はなかった。

7.住宅市場が改善する。住宅在庫は引き続き高水準であるが、供給過剰の状況は著しく改善し、2010年において在庫が増えたのとは対照的となる。ケース・シラー住宅価格指数は徐々に高くなり、住宅着工件数は60万戸を超える。
→ケース・シラー住宅価格指数はマイナスが続いているが、住宅着工件数は60万個を超えている。

8.新興国からの引き続きの需要増と新規供給を増やすことに失敗したことで石油価格は115ドルまで上昇する。ガソリン価格の値上がりにもかかわらず、走行量は減らず、ハイブリッド車の販売が増加するか、そうでない場合は、議会は石油資源保全対策を講じることとなる。
→石油価格は(WTI)4月29日に115ドルに達した。米国は石油純輸出国となった。

9.タリバン対策に進展が見られず、カルザイ政権が崩壊することに失望して、オバマ大統領は米軍を帰還させることを決断し、アフガニスタンは再び軍閥による部族支配に戻ることとなる。オバマは軍人の撤退を加速させ、今年末までにはほとんど撤退が完了する。イラクにおける軍の撤収をあわせ、中東を主要な西側のプレゼンスのない状態にすることで、高まるテロの脅威に直面することとなる。
→オバマ大統領と軍部との意見相違が浮き彫りとなり、オバマ大統領の計画より撤退スケジュールは遅くなる見通し。

10.メルケルが欧州の財政改革を主導する。財務内容の悪い国は、2014年までに財政赤字を半減することを約束することを条件に、EUと厳格なプログラムを遂行する限りIMFより追加支援を得ることとなり、増税するものの穏やかな成長を続けることとなる。欧州の財政危機への懸念は薄らぐ。こうした政策の実施で金融市場は心理的には満足するが、一時しのぎであり根本的な解決策ではないために、長期においては有害なものとなる。
→EUは、英国と独仏の意見対立が鮮明となったが、①放漫財政への自動的制裁、②国の予算編成への介入制度創設、③財政赤字ゼロの義務付け、という3段階の財政規律強化で合意した。ただ、市場の不安を鎮める即効性のある施策には欠けており市場の混乱は続いている。

予想に関しては、当たったものもあったといった程度でしょうか。もっとも、この予想は、平均的投資家の予想に反して起きそうなニュースということですので、起きてはほしくないけれど、やはり予想していた悪いことが起きてしまったということが多かったことを示しているようです。特にユーロ問題は懸念していた通りになってしまったということでしょうか。

世界的にも年間を通して暗いニュースに覆われていましたが、それでも、日本においては3・11の東日本大震災前には比較的明るいムードでした。ただ、この時を境に、悪いニュースばかり続き、憂鬱な1年間となってしまいました。唯一といっていいくらいの明るいニュースは「なでしこジャパン」のワールドカップ優勝でしょうか。肉食女子、草食男子という言葉も良く使われましたが、スポーツ界においては女高男低と日本においては女性に勢いがあるようです。
元気な日本の女性ですが、管理職に占める女性の割合は8.0%(平成21年度:厚生労働省調べ)と低い水準に留まっています。部長職に至っては3.1%と極めて例外的な水準です。スポーツ界における日本の女性の活躍に比較して、なんだかアンバランスな気がします。これは女性自身の問題なのでしょうか。違うような気がします。
さて、今年は特に日本の社会全体におけるガバナンスの欠陥が表に現れた年ではなかったかと思います。
福島第一原発事故では、「想定外の津波」によるとの立場を、社内調査の中間報告でも堅持した。専門家から10mをはるかに超える巨大津波の可能性が再三指摘されていたにもかかわらず、そうした意見が無視されてしまったのは、ガバナンスの欠陥によるものではなかったと考えられます。安全性を評価する委員会のメンバーには様々な意見を持った中立的な委員の数が少なく、結果として会社の方向性に歯止めをかけることができなかったと言われていますが、これは、オリンパスと似た構図ではないでしょうか。
今後、日本の企業に対しては、ガバナンス体制に対してこれまで以上に厳しい視線が向けられるものと考えられます。自分たちの事業が分かっていない人に経営に関与してほしくない、邪魔をしてほしくないとの気持ちは分かりますが、今年起こったことに鑑み、その失うものの大きさと、自分たちだけでなく日本全体に及ぼす影響を考えると、方向転換する必要があると思います。今年起こった様々な事件は、その時期が来たということを伝えているのかもしれません。
社外取締役を入れるという形式的なことではなく、専門性を持った中立的立場の人たちが中心をなす取締役会にすると、経営者の暴走を防いだり、同じ会社や業界にいたのでは気付かなかったような視点でのアドバイスを得ることが期待できます。さらに、様々な発想を持った系統の人たち、つまり女性や外国人を加えると、ダイバーシティということになります。オリンパスの場合は、社外取締役ではなく、外国人社内取締役によって隠された不正が暴かれることになりました。だから、こういった人たちはサークルに入れたくないということにもなりかねませんが、これでは、投資家はたまりません。その結果として、外国人投資家が投資をためらうようになりかねません。
オリンパスの事件は、直接的には日本国民に悪影響は及ぼしていませんが、福島第一原発は今でも特に福島の人々を苦しめていますし、それ以外の人達でも風評被害や電気料金の値上げなどで苦しめられています。この件を、ガバナンスの問題として捉える向きはあまりないように思えますが、実は、ガバナンスの欠陥が引き起こした最悪のケースではないかと捉えています。
東電もオリンパスもまだ総括は終わっていませんが、今年は、来るべき幸せの時代のための破壊の年であったと、将来位置づけられるためにも、しっかりとした総括とその反省に立った改革案を設定実行してほしいものです。
来年は真の意味でのガバナンス元年となるように期待しています。

(傍目八目)